「共感の自治をめざして 〜〜市民参加のための補助金行政の改革〜〜」

 
目次
はじめに
1.考察の枠組み
(1)地方自治体
(2)地方自治における政治と行政
(3)国と地方の関係
2.市民参加
(1)市民参加の主体
(2)市民参加の対象
(3)市民参加の時機
3.国庫補助金
(1)政治的補助金と行政的補助金
(2)補助金交付の判断のレベル
4.市民参加と国庫補助金の関係
(1)市民参加に要する時間
(2)国庫補助事業と自治体
(3)補助金行政の自治体への影響
5.補助金行政システムの改革にむけて
(1)補助金のメニュー化・統合的補助金の留意点
(2)補助金交付事務フローの見直し
6.地方自治の未来へむけて
(1)過程主義への転換の留意点
(2)地方自治の担い手たち
*参考文献

【本文】

はじめに
21世紀をめざす地方自治を考える場合、市民生活における行政の関与すべき領域の著しい拡大を念頭に置く必要がある。現代国家が肥大しすぎているとする論者の間にも、かつてのような夜警国家に復帰するよう主張する者はいない。
このような福祉国家は、行政機能の専門化・高度化・技術化のため相対的に議会による法の支配を弱め行政国家現象を招来し、その結果行政裁量は拡大する。このことは国民主権といった観点からすれば問題がないわけではない。そこで、行政の専門化・高度化・技術化は、民主的かつ個々の国民の権利を尊重した手法で達成されることが要求される。その手段として市民参加が必要であり、その舞台としての地方自治体が重要になる。
三割自治という言葉に象徴的な補助金行政について、市民参加といった観点から考えてみたい。

1.考察の枠組み
(1)地方自治体
地方自治体といってもその数は 3,000を超え、都道府県、市区町村といった制度上の相違や規模等による相違があり、一律に取り扱うことはできない。
しかし、ここでは市民参加といった観点から、行政の専門化・高度化・技術化との相克について問題を考えるのであるから、市民からの距離が近い基礎的自治体で行政の組織化が、より一層進んだ大都市自治体を念頭に置く。
(2)地方自治における政治と行政
地方自治を考えるとき、ともすれば行政過程だけが考察の対象となってきた。しかし、地方自治は行政過程だけで成り立つわけでなく、公選首長・公選議員を戴く以上政治過程が重要であることは当然である。また、政治過程はひとつの地方自治体内部だけで完結するわけでなく、近接自治体、類似自治体等をとおして他の自治体に波及し、地元選出県会議員・国会議員等を通じて異なったレベルの政治過程に影響を与える。
とはいえ、イデオロギーの希薄な領域における行政が日常の活動の大半を占め、それらが一見何事もなく流れているようにみえるのも事実である。そのような見慣れた行政過程にわが国に根付いた伝統的行政風土を見いだし、それらが現代社会からの要請にどのように対応し、また、対応できないでいるのかを考える。
(3)国と地方の関係
地方自治がわが国の統治機構にどのように位置づけられるかは、それ自体ひとつの争点である。しかしここでは、行政機関相互の関係を現実の行政過程をとおして見直すのであるから、理念的な問題には深入りしない。国の統治機構の一部を地方自治体が担っているという通説に従う。
そのような中で市民参加を考えるとき、市民と国民はほぼ重なりあうのであるから、市民が最も身近な政府である市区町村行政に参加するということは、間接的に国の行政に参加することを意味する。そしてこのことは、ただ単に理念のレベルにとどまらず、三割自治の実態からしてまさしく国の行政に介入することである。国家行政と自治体行政は、機能・金・人の面で密接に関連しあっているからである。
三割自治の内実は、B機関委任事務 C国庫補助金による補助金行政 D国からの天下り人事 であるとされる。Bが最も制度的な統制方法で、C、Dにいくほど非制度的統制方法である。これら3つはそれぞれに問題をはらんでいるわけであるが、三割自治という言葉の源である自治体の歳入・歳出構造の不均衡について市民参加といった視点から考えるとき、最も問題なのは補助金行政である。なぜなら、機関委任事務は一般の行政執行に際してさほど意識されているとはいいがたい状況であり、また、天下り人事は国に一方的に利益が存するわけではない。むしろ、補助金等の獲得のために天下りを地方の側で望むのであれば、天下り人事は補助金行政にまつわる問題の一部とさえいえる。
さて、地方自治体における市民参加に、国の補助金行政はどのような影響を与えているのか。より端的にいえば、補助金行政は市民参加をどのような形で疎外しているのだろうか。

2.市民参加
(1)市民参加の主体
市民参加の主体は当然「市民」であるが、一口に市民といっても法人と自然人の区別、収入の多寡・市政への関心度による差異等一様ではない。そこで、平均的な市民像を構想する必要があり、ここでは、市政に多少の関心を持ちつつも自分と家族の生活に忙しく、また地域活動よりも職業を優先するといった意識と行動をとる自然人をイメージする。
(2)市民参加の対象
市民参加の対象についてはその分類の基準自体が多様である。
まず第一に、総合計画のような抽象的な計画づくりへの参加なのか、具体的個別事業への参加なのかといった区別ができる。時間と日々の生活に追われる平均的な市民による市民参加を考えるのであるから、抽象的な計画づくりに対する市民参加についてはここでは取り上げない。
第二に、具体的個別事業のうちでも例外的なビッグプロジェクトか日常的なありふれた事業かといった基準により区別する。そして、ビッグプロジェクトは政治過程の一環として考えるべきものであるから、ここでは取り上げない。何気なく行われ取り立てて問題にされていないマニュアル化された行政活動の中に構造的問題点を見いだすことが目的である。
(3)市民参加の時機
市民参加の形態に関しては、時機が問題となる。行政過程をプラン(計画)、ドュー(実施)、シィー(評価)の3過程に区分したとき、市民はどの段階で参加するのがベストなのか
行政の科学化といった観点からすれば、当然計画過程のほうが優れている。計画策定の段階で多様な市民のさまざまな参加機会が求められる。ただし、この方式は、先ほど述べた平均的な市民にとってはひじょうに厳しい。西ドイツやアメリカのような一般行政手続法を制定し行政計画の早期確定を図るといったいきかたもあるが、権利・義務といった法的関係をタテマエと理解し、ホンネの部分では別のルールでもって問題解決を図ろうとするわが国の風土に今現在受容されるかどうか疑問である。行政の理論的科学さと実行性といったレベルにおける人間の感情の調和をめざすことが求められよう。
行政の科学化を意識しながら、なおかつ執行過程において市民参加の余地を大きくとるようなシステムが構築されなければならない。

3.国庫補助金
(1)政治的補助金と行政的補助金
まずここで政治的補助金とは、補助金を出す側に相当な裁量権が存するために非類型的であり、また、概してその金額が大きなものをいう。整備新幹線計画、情報化社会に対応した都市基盤整備、大規模地下街の建設等に対する補助がこれに該当する。これに対して行政的補助金とは、いわば一定の条件を満たす事業に対しては毎年度ほぼ確実に補助金が交付されるものをいう。補助金を出す側に裁量権が少なく金額も少額である。
圧倒的に件数の多い行政的補助金について考えてみたい。
(2)補助金交付の判断のレベル
補助金交付の判断をする者は、形式的には補助の交付の名義人であるとか決裁権者であるとかで、一義的に明確にすることができる。しかし、実際に補助金の交付の可否を判断する実質的な判断者は別に存在するのではないか。
複雑多様化する現代社会において、たとえば課長が課のすべての事務を掌握することなどできなくなっている。軽易もしくはルーティン化された事務処理の判断は自ずとより下位の職務を担当する者に任せざるを得ない。その意味で個々の担当者の役割は重要である。
欧米のように職業選択が横断的に形成される国においては国・自治体の担当者間に同一の目的で仕事をしているといった共感が生まれる場合があるようだが、わが国のような縦断的職業構造をとる風土にあってはそのような共感が生まれることはごくまれである。したがって、補助金に対する意識は交付される側からみると「貰う」「取る」であり、交付する側からみると「やる」であるといったように、交付する側・される側に対等な関係は形成されがたい。法的な補助申請の以前に詳細な「協議」(ヒアリング)が求められ、その協議に基づいて「内示」がなされ、事実上内示額が申請額を拘束するといった構造はとうてい対等関係を形成し得ない。
公式に補助金なり事業なりに責任を有する課長以上のレベルではホンネはどうあれ、たとえば補助金交付事務の簡素・合理化といったようなタテマエが前面に出ざるを得ないが、そういった意味では責任を有しない担当者レベルでは詳細な資料の提出を要求するなどホンネの部分が表に出やすい。そのようなところで実質的な補助金の交付が判断される。
また、補助金の交付を決定する権限を有する形式的な官庁とそのような権限は有しないが実質的な判断を行う官庁とがある。
たとえばA省が補助金の交付手続を簡素化し補助申請者の負担の軽減を図ったとする。X市はそれに応えて補助申請を行おうとするが、申請書を取り次ぐP地方局ないしはQ県はA省に説明するための内部資料として、これまでと同様の詳細な説明資料をX市に求める。その資料はA省にとっては不用なものであってもそれを取り次ぐ機関の多数の職員の誰か一人が必要と考えたならば、結果的にX市はそれを用意しなければならない。正式な添付資料が説明のための内部資料として位置づけが変わっただけのことで、補助申請するX市の手間は何も変わらない。このような形でも補助金の交付は判断される。

4.市民参加と国庫補助金の関係
(1)市民参加に要する時間
日常的な行政執行に市民参加は定着しているとはいいがたい。したがって、行政の執行過程に市民参加に要する時間が見積られていない。そこで、事業に対して異見を有する住民によって否応なく市民参加を強いられるとき、事業は当初の予定より遅れることになる。
ところで、自治体及び国の会計制度は単年度主義が原則である。そのような中で事業が遅れれば繰越等の手続を踏む必要が生じる。
しかし、予算の繰越が事業の遅れを前提とし議会への報告を義務づけられていることから、民主的かつ関係者の権利保護を目的とした市民参加の結果によるものだといっても、事業執行部局にとっては歓迎される措置ではない。事業実施主体である自治体でもそのような意識であるから、事業を直接実施しているわけでない省庁等の補助事業者からすれば、補助金を出してやる相手方の不手際から自らが大蔵省等財政当局への報告を求められる羽目に陥るといった意識が生じ、きわめて不興である。
遅れつつも事業が完成にむかって進行しているという認識の共感は、事業実施主体と補助事業者との間に成立していないのである。
(2)国庫補助事業と自治体
国庫補助金と一般にいわれているものは、地方財政法にいう負担金、委託金を含んでいる。補助金、負担金、委託金の性質はそれぞれ異なるものであるが、実際には、すべて狭義の奨励的補助金と同様の感覚で取り扱われている。自治体予算の編成でも国庫補助事業は優先される。歳出予算から国・県補助金や公債を除いた一般財源ベースで考えた場合、事業の効果が同様であるならば国庫補助が得られる事業が優先されるのは当然であろう。
ところで、国庫補助事業において、補助金を交付する者とされる者との間に共同事業遂行者としての共感関係が成立していないことは先に述べた。事業の遅れは交付者の不興を買うので、そうしないために事業は予定通りに仕上げる必要があり、もともと予定していない市民参加は歓迎されないのである。国、県、市の関係が対等なものと意識されず、ともすれば「江戸の敵を長崎で討」たれないようにといった配慮から「長い物には巻かれろ」的な思考法に陥っている自治体にとって、市民参加は、必要性は感じるもののできれば避けて通りたい課題のひとつと意識されている。
(3)補助金行政の自治体への影響
市民参加に基づく事業の遅れをマイナスにしか評価しない自治体執行部の態度のすべてを、補助金行政のせいだけにするつもりはない。
補助金等の特定財源を含まない単独事業であっても、議会に報告をしなければならない予算の繰越は嫌われている。すなわち、予算が年度末にはきれいさっぱりと消化されることをよしとする結果主義が美徳になっている。このような考え方に対して、事業執行の過程に市民参加を組み込み、その中でいかに全体の利益と個別の利益の調整を図ったかに価値を求める考え方を過程主義ということができよう。
多様な価値観・考え方をもつさまざまな市民の合意形成を図りながら事業を行うことが現代の民主的行政である。効率優先の結果主義は、立派な建物はできたが利用者がさっぱり来ないといった無用の長物を制作しやすく、関係者のことなかれ主義を助長する。そこで、そうしないために過程主義への早急な意識転換が求められ、それと同時に、意識とシステムは相互に関連しながら練り上げられているのであるから、この意識転換を阻む補助金行政のシステムを改善する必要がある。

5.補助金行政システムの改革にむけて
(1)補助金のメニュー化・統合的補助金の留意点
補助金行政の弊害についてはこれまでにも色々と指摘されている。その解決策のひとつとして、補助金のメニュー化・統合的補助金への転換が提案されることが多いので、これについて若干考えてみたい。
補助金のメニュー化・統合的補助金とは、類似ないし同一の補助目的の補助金の対象事業を複数用意し、自治体の選択を可能にする方式である。したがって、類似ないし同一の補助目的の範囲内でならば、交付申請時と事業実績報告時とで事業内容の変更があってもよいはずである。しかるに、補助金のメニュー化等にかかわった関係部課で了解済みの事項であっても、最終的に補助金を支出する機関でクレームがつく場合がある。交付の判断のレベルと交付事務手続きのレベルの機能の純化が求められる。
(2)補助金交付事務フローの見直し
補助金は、概算払いの制度はあるものの最終的には事業実績報告に伴う精算書の提出をもって確定し、その後交付される。ルーティン化された行政的補助金にかかる事業は、その規模の小ささのゆえ、多くは1年ごとの事業であり年度末をもって終了する。したがって、自治体側の補助金受け入れは翌年度の出納整理期間である。補助金申請時に事業の終了期限を拘束されるため市民参加に応じにくいのであるから、いっそのこと事業の終了後に補助金申請をするようにしたらどうだろう。そうすれば事業の進捗が補助条件から解放され、市民参加に伴う設計変更・工程変更等がしやすくなる。
この方式では、補助金申請時にはすでに事業が終了しているため、補助金の交付者と被交付者との「協議」(実際は国の基準の押し付け)によって申請額が調整されるといった従来の手法が取りにくい。そこで、補助申請額は申請者の判断によって決定されることになる。したがって、補助金交付者側の判断は本来の意味での「査定」によって示されざるを得ない。査定によって申請額を一方的に切り下げることには国も慎重にならざるを得ないので、超過負担も出にくくなるのではないか。また、一般に「補助金」として一括されている負担金(法律補助)と補助金(予算補助)の区別も厳格に行われようになるのではないか。負担金の交付は法律に基づく国家の義務であるはずであるが、現状では申請額自体が事前に調整されてしまうので、実質的な超過負担が目に見えにくくなっている。

6.地方自治の未来へむけて
(1)過程主義への転換の留意点
過程主義は事業の実施過程に市民参加を取り込むことにより、民主的な行政とりわけ少数者の権利保護をめざすものである。しかし、事業実施の過程を大事にする反面、ともすれば事業の遅れを正当化しやすい。怠慢による事業の遅れの隠れ蓑に利用されるおそれがある。そこでそのような危険を防止する仕掛けが必要になる。
その仕掛けとは一定の手続きの制度化であり、その手続きの履践状況を段階的に管理することが望まれる。その前提として自治体情報の充分な提供が行われる必要があり、手続きの節目には受動的な情報公開から一歩進んで、自治体に能動的に情報の公開を義務づけるといった措置が必要である。また、その実行状況を監視するために、市民オンブズマンのような機構の整備が望まれる。
(2)地方自治の担い手たち
市民参加を阻むものについて補助金行政を中心に考えてきたが、それがすべてでないことはいうまでもない。国庫補助制度が改革されれば市民参加が進むとは単純にいえない。市民参加を阻む自治体のタテワリの行政組織とその手法、ことなかれ主義に陥りがちな職員の意識といった点にも留意する必要がある。
ただ長年にわたる国庫補助制度が自治体の組織や手法に影響を与え、職員の意識をその制度にあったものに馴らしてきたということはできよう。それを逆に考えるとき、国庫補助制度の改革は必ずや自治体の組織や手法、職員意識の変革へとフィードバックするだろう。地方自治体と地方自治のプロであるべき自治体職員が自治の担い手であることは間違いなく、その組織、機構、意識の変革は急務である。
そして同時に、それぞれの市民、とりわけ自治体の議員は地方自治の重要な担い手である。彼らの目に映る「自治」とは政治であり、その具体化としての行政であろう。しかるにその行政は国の行政機構に組み込まれていて、地方政治のコントロールが及びにくい。その結果、自治体職員と市民や議員との間に共感関係が成立しがたく、相互不信のうちに教条主義・モノ取り主義が蔓延している。自治体職員は、一面では合理性を有するものの省庁のタテワリの内に閉じてしまっている国の指示に盲従し、市民・議員の生の声に耳を傾けそこから統合的なプログラムを構築する努力を怠りがちである。このジレンマの克服こそ、21世紀をめざす地方自治の必要条件である。そのための手段として補助金行政の改革がある。
自治体政治の評価は多様な価値観を持つさまざまな市民によってなされるのであるから一義的でないのは当然であるが、評価の基礎にある自治制度の歪みについて考慮されないならば評価される側の一員としては納得しがたい。
市民・職員・議員の共感関係の上に立った見通しのよい自治制度の構築を切に望むところである。

*参考文献
・村松岐夫『地方自治』(現代政治学叢書15、東京大学出版会、1988年)
・佐藤謙編『補助金適正化法講義』(大蔵財務協会、1988年)
・小林良彰他『アンケート調査にみる地方政府の現実』(学陽書房、1987年)
・佐々木信夫「地方政府の政策過程論」(月刊『地方財務』、ぎょうせい、1987年〜)
・小島昭『自治体の予算編成』(学陽書房、1984年)

川崎市 山口道昭 1985年12月記

 
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