「参加」をとりまく位相 〜〜市民・職員・行政〜〜
1 参加論の視座
近代の自由主義的法治国家において支配的行政原理であった「法律による行政」ないしは「法の支配」は、現代の社会福祉国家における行政の関与すべき分野のいちじるしい拡大とそれに伴う行政内容の変貌とによって見直しを迫られている。とくに都市計画とか土地利用計画とかいった計画行政の分野では、法は自ら利害の調整をおこなうのではなく、利害調整の場を提供するだけで、実際の調整は行政過程にゆだねる、という構造がとられている。「法律による行政」◆1の原理から「手続による行政」の原理への転換である。たとえば、都市計画法制を例にとると、都市計画法で用途地域等の地域地区を定め(第8条)、用途地域内における具体的な建築制限は建築基準法にゆだねているが、その用途地域は都市計画「法」上指定されているわけではなく、原則として地方自治体が作成する都市「計画」によってはじめて具体化する(第15条)。すなわち、都市計画「法」で規定しているのは、公聴会の開催等(第16条)や都市計画の案の縦覧等(第17条)のような都市計画策定「手続」にすぎない。
さて、「手続による行政」といった場合、その意味を伝統的に理解するなら、主としてアメリカ合衆国で発達した適正手続(行政過程では告知と聴聞手続を手続要件として要請すること)◆2の保障ということになろう。しかし、現代の行政をとりまく社会的条件の変化◆3のなかでその意味をとらえるとき、それは、行政計画決定過程ないしは行政政策策定過程において、多元的な価値観をもち異なる利害関係にある人々および集団間を調整する「参加手続」として理解される。
このような観点から、地方自治体なかんずく主権者である国民にもっとも身近な行政機関である市町村では「市民参加」についてのさまざまな試みが行われでいる。しかし、一方、今日の大衆社会状況のなかでは各種選挙における投票率の低迷化傾向に端的に示されるように、政治的無関心層が多数存在しているのもまぎれもない事実である。この政治的無関心にもさまざまな種類があり、ハロルド・ラスウェルはつぎの3つを区別している。「@人間行為の政治化が、1つの価値としての権力ないし権力過程に幻滅することによってしだいに減退していった場合、それを脱政治的人間という。Aこれにたいして、科学・芸術のような権力以外の価値が騰貴するにつれて、ますます権力の価値が下落していく結果、権力に無関心になる場合、われわれはそれを無政治的人間という。Bこれに対して、権力過程への参加が権力以外の価値と両立しがたいという理由から、これに積極的に反対する場合、これが反政治的人間である」◆4。
これらの政治的無関心のうち、ここでは脱政治的無関心についての問題をとりあげたい。「脱政治的無関心は『屈折的無関心』とよばれることがある。つまり、本来は政治的関心があるのであるが、それが折りまげられ、ゆがめられて無関心に転化しているからである。その無関心の背後には強烈な挫折感・フラストレーションや否定的関心があるわけである」◆5といわれる。ロバート・レーンやマレー・レヴィン等がいうところの「政治的疎外者」◆6とともに、これらの人々が政治参加の有効感に納得するような「参加」システムこそ構築されなければならない。
このような視点から、現在行われている市民参加のシステムを再検討し、問題点の解決にむけての試論を展開してみたい。
2 市民参加の主体
さて、現在川崎市で行われている市民参加の方法について簡単に紹介し、その問題点を指摘したい。川崎市企画調整局長小松秀煕氏は、「川崎市における市民参加の実験---区民懇話会の活動を通して---」◆7という小論のなかで、「市民が主体となって、自主的に運営していく町づくりのための討議と実践の場、つまりヨコ型の市民参加方式」としての区民懇話会の意義と行政の対応について述べている。委員の固定化やボス化を防ぐために制度的および運営的に配慮しているところであるが、残念ながら前述の脱政治的人間もしくは政治的疎外者を政治(行政)の舞台に引きあげるまでには至っていない。すなわち、区民懇話会の委員になる市民は、もともと政治的関心の高い人々であり、無関心市民はあいかわらず無関心市民のままにとどまっている。そこで、市民参加といった場合に、その対象とする「市民」の範囲をどのようにとらえるのか、が問題とされる。いわば市政への公式ルートである○○懇話会、××委員会の委員になろうとするほどの意欲を、大多数の市民はもたない。平均的な市民とは、自分自身や家族の生活(仕事)に忙しく、自治体の行政には普段は関心を払わない。ただし、行政活動が自分の生活(利害)に関係する場合には積極的な反応を示す、というものであろう。このような平均的市民を政治的に意識が低い、政治的に夫成熟であると決めつけ、公式の政治(行政)ルートから捨象することはまちがいである。なぜなら、このような市民もまた市政の主権者であることにかわりがないからである。かれらが気楽に参加しうるような政治システムこそ構築されるべきである。さもなければ、実際の行政活動が公益のためにかれらの便益を制限するとき、たとえば、廃棄物処理場とか葬祭場とかのいわゆる迷惑施設を設置する際などに端的にみられるような、近隣住民(利害関係者)による、ときには短絡的とさえいえる反対運動はけっしてなくならないであろう。
3 市民参加の時機
それでは、前述のような平均的市民が行政過程に「参加」する場合、どのような時機に参加が可能であろうか。この問題を考えるにあたり、まず、事業実施までの行政過程を大まかに区分する。@政策立案過程、A予算査定過程、B予算審議過程、C予算執行過程、の4段階があげられる。
第1の政策立案段階の「参加」には、さらに2つの方法が区別できよう。ひとつは、前述の区民懇話会方式のようなフォーマルな市民組織を形成し、そこで草案をつくる方法である。アイディア先行型のやりかたで、市民感覚に富む政策の提起が期待されるが、もともと参加意欲のある市民しか「参加」の対象にならないという限界をもつ。他方は、政策原案は行政でつくるが、その是非について(参加意欲のある)一般市民や利害関係者等の意見を広くもとめる方法である。欧米各国ですでに成立している行政手続法的な参加のやりかたであり、すぐれた方式だと思うが、わが国にこのような参加方式を使いこなすだけの市民意識が十分に根付いているのかという疑問も存する。
第2の予算査定過程においては、今後コンピュータの使用により査定時間を大幅に短縮し、数種類の政策について便益あたりの費用を算出するなどした後市民討議に付することも理論的には可能と思われる。しかし、この予算査定過程は専門的・技術的要素が非常に高い領域のため、平均的市民による直接参加はなかなか困難であろう。したがって、その前段階である政策立案過程で決まったことを最大限尊重させる間接参加方式でもやむをえまい。事実、区民懇話会の場合など、その提言は十分尊重されている。
第3の予算審議過程での主役はいうまでもなく議会である。議会は、市民の代表者である市議会議員によって構成されており、近代的民主制の原理である三権分立制のたてまえから考えるとき、予算審議過程における市民参加を考慮する余地はないようにも思える。しかし、冒頭に述べたように、現代の福祉国家あるいは行政国家現象のなかで「法律による行政」原理の見直しが問題になり、行政権の新たなコントロール手段として「参加」の問題がクローズアップされているのである。とくに、議院内閣制を採用する国政の場合と異なり、自治体は首長の直接公選制が定められている。これらのことを念頭においたうえで、議会独自の「参加」制度といったものが検討される余地もあるのではないか。
最後は予算執行過程における「参加」である。平均的市民は白分の利害と行政清動が衝突するときに初めて「行政」を意識し、積極的に反応するものであるといった観点からとらえるとき、もっとも平均的市民にとって「参加」に適した時機であるといえよう。しかし、行政のサイドからこの過程をとらえた場合、文字どおり予算の「執行」過程にあるため、「参加」による計画の変更は予算の変動をともなうという意味で、予算の性格が問題となる。この点につき、つぎにやや詳しく論じてみたい。
4 予算の効果と「参加」

(1) 歳出予算
予算の内容は、歳入歳出予算、継続責、地方債等種々の事項からなる(地方自治法215条)が、まず、ここで問題とするのは歳出予算である。
予算の執行に関しでは地方財政法に規定があり、第4条1項は歳出に関する原則として、「地方公共団体の経費は、その目的を達成するための必要且つ最少の限度をこえて、これを支出してはならない」とする。この規定の意味するところは、「本来歳出予算は執行機関に支払いを可能ならしめ、かつ、支出の最高限度額として執行機関を拘束するものであって、支出額自体を定めるものではない」◆8とされる。すなわち、予算があるからといってその全額を支出しなければならないものではない。このことは、「最少経費による最大効果」の原則(地方自治法2条13項)を予算執行の立場から簡潔に表現したものと解説されている。したがって、執行機関が予算の範囲内で「参加」の結果としての計画の変更に対応することに問題はない。まず、このポイントはしっかりおさえておきたい。しかし、計画の変更によって予算を超過することが確実に予想される場合に、この計画の変更を承認するということは、後の予算措置(予算の補正)まで約束したことになってしまう。「参加」の結果と予算による制約とが競合する場合、どのような方法でこの問題の解決を図るべきか。
予算執行過程における利害関係市民による「参加」の結果は往々にして予算の増加を伴うものである。たとえば、行政(執行機関)が建物をたてる場合に、日照や眺望に対する影響を極力付近の住民に及ぼさないようにするため建物の高さをさげるとする。延床面積をけずらないかぎり地階建てにせざるをえないが、地階建ての工事単価が高価であることはいうまでもない。また、周辺の道路整備や街灯の設置等を条件に建物の建設に対する周辺住民の同意をえる、というような場合は、その道路整備等の工事費用の分だけ予算を超過してしまう。
このような事態をさけるためには、本来は政策(計画)立案過程で「参加」がなされ、その結果にもとづいて予算化することがのぞましい。しかし、これまでにもたびたび述べできたように、計画段階では平均的市民の参加が十分に期待しがたいので、ここでは予算執行過程における「参加」の問題をとりあげているのである。すなわち、予算の確定時では後(予算執行過程)で発生する諸問題をすべて網羅することは不可能であるため、予算の増額つまり補正予算をくむ必要が生ずる。
(2) 補正予算とその財源
歳出予算の超過に対して、予備費(地方自治法217条)をもって充当することも考えうるが、この場合はすでに「予備費」として予算措置されているもののため、財源について考慮する必要はない。問題は、予備費のような余裕財源がないときに、歳出予算の増額補正に対していかに財源の裏付けをとるか、ということである。
もっとも、歳入予算は歳出予算と異なり、「全く収入の見積りにすぎず、その根拠は予算と別個に存在する」◆9ものなので、石油ショック(1973年)以前の高度経済成長期におけるように自然増収が太幅に見込まれるときには、補正財源にことかかない場合もありうる。しかし、たとえ自然増収が見込めようともルーズな財政運営が許容されるわけではない。また、昨今の経済情勢が非常に厳しいことは、改めてここで指摘するまでもない。
加えて、自治体財政は、三割自治ということばに端的に示されるように自主財源に乏しく、国庫支出金に頼らざるをえないという特徴を有する。昭和60年度(1985年度)予算ベースでみて、一般会計予算3,054億円のうち1,757億円(57.5%)を市税収入でまかなう「富裕」自治体である本市においても、地方交付税6億円(0.2%)に対し、国庫支出金295億円(9.7%)とけっして少なくない額である。
国庫支出金は、(ア)法令に負担割合が明示される「国庫負担金」(地方財政法10条、10条の2ならびに10条の3)、(イ)国の予算の範囲内で交付される「国庫補助金」(同法16条)、(ウ)本来国の事務であるものを自治体が委託をうけておこなう「国庫委託金」(同法10条の4)、に大別され、それぞれ性格を異にするものである。しかし、「補助金等に係る予算の執行の適正化に関する法律」(以下「補助金適正化法」という)第2条1項1号および2号にみるとおり、交付手続面では「負担金」も「補助金」も、「補助金等」としてまったく区別されなくなってしまう。いわゆる補助金行政といった場合の「補助金」は、補助金適正化法にいう「補助金等」にほかならない。
さて、これら「補助金等」は、たとえば厚生省所管の社会福祉施設等施設整備費負担金(補助金)の場合を例にとると以下のような一連の事務手続をへて交付される。
事前協議→内示→交付申請→交付決定→実績報告→金額の確定
自治体の歳出面での予算執行は、歳入面ではおおむね内示から実績報告までの過程におこなわれる。そこで、予算執行過程における「参加」の問題を考えるのに、今度は歳入面からその可能性と限界を論じてみたい。
「参加」の結果、事業費がふえ歳出予算を補正する場合、それにともなって補助金等を多く受けいれられるかというと、まずそのようなことは期待できない。なぜなら、補助金等の額は「(補助基本額)×(補助率)」によって算出されるが、補助基本額はほとんどの場合事業費(所要額)に一致しない(補助基本額<事業費)からである。このことは「国庫補助金」にかぎらず「国庫負担金」の場合でも同様である。したがって、第1に、予算執行過程における「参加」は自治体の自主財源の多寡たよって制約されることが指摘できよう。
さらに、「参加」の過程で大幅な設計変更等がなされ、当初の計画が著しくかわってしまう場合である。この結果、国の省庁で定める「補助要綱」の「補助基準」を満たせなければ、補助金等は交付されない。自治体は財源対策上当然このような事態を避けようとするので、実際には大幅な計画の変更は困難である。つまり、「参加」の第2の限界は、国と自治体との関係のなかに複合的に存在している。
これら2つの問題が「参加」を阻害しているとするならば、国の補助金行政に反省をもとめ、自治体の自主財源を拡充することによって市民参加の拡大がはかられよう。しかし、自治体の自主財政権の確立は、「参加」にとって必要条件ではあるけれども、必ずしも十分条件ではないように思われる。これらの点についてつぎに述べたい。
5「参加」の阻害構造

(1) 「摂津訴訟」の意味したもの
直接には「参加」の問題と関連しないが、「国庫負担金」に関する自治体の超過負担を争ったものに有名な「摂津訴訟」(1976年12月13日東京地裁判決)◆10がある。
この訴訟の原告である摂津市の論理をひとことでいうと、法律(児童福祉法52条)は保育所の設置費用の2分のlを法律上の義務として国の負担にしているのに、国(厚生省)は一方的に不当な基準にもとづいてその賛用を算定し、その結果摂津市に超過負担を強いた、というものであった。これに対して、国側の主張は、内示額どおりの負担金の交付申請が摂津市からなされ、それにもとづき国は交付決定をおこない、すでにその金員は支払いずみであるので超過負担の問題は生じない、というものであった。摂津市が実態にもとづいて訴訟を提起したのに対し、国は補助金適正化法にもとづく形式論理をもって対抗した。そして、判決は、福祉行政における経費負担のあるべき姿や超過負担の問題点にはほとんどふれず、国側の全面的勝利で幕をおろした。
摂津訴訟を評して、「訴訟という公式の舞台では敗れはしたが、この訴訟を契機として基準単価の大幅改定が実現し、負担金の額の引上げという実を自治体は勝ちとった」という見方もある。しかし、このような見方は国と地方の財政関係の本質を見つめたものとはいいがたい。なぜなら、地方でいう「超過負担」は、国にいわせれば「地方のぜいたく」にもとづく結果にすぎず、その超過費用は地方の一般財源で措置することを当然とされてしまい、「超過負担」に関する国と地方の議論はしょせんかみあわないからである◆11。
したがって、この問題の解決には、(ア)保育所等の施設建設費についても生活保護費等の措置費や国民健康保険の療養費・給付費のように地方の実支出額の一定割合を無条件に国庫が負担する制度とするか、(イ)施設建設のように基準仕様を明確にしがたいものについては、「国庫負担金」という制度自体をなくして一般財源化すべきである。参加論の視座からいえば、市民の要求は縦割りの省庁の権限内ですべて割りきれるものではないので、参加の結果による建築費の増加分までをすべて園庫の負担にあおぐことは無理があり、上記解決法の(イ)が相当である。
(2) 自治体の側の問題点
上記の「摂津訴訟」は、もともと国と地方の経費負担についての争いなので、市民による「参加」の観点は問題になりにくかった。しかし、わたしは、国と地方の間の一見「団体自治」の問題にすぎないことがらのなかにも「住民自治」、「市民参加」の阻害構造が潜んでいることを指摘したい。市民の側でそのような構造を理解し、たとえば「補助金行政」の弊害に目をむけないかぎり、自治体はいつまでたっても国の行政の執行機関の地位に甘んじ、市民による市民のための市民の「自治政府」にはなりえない。
ところで、自治体が「自治政府」になりえない理由をすべて市民の無理解の結果に帰することが可能であろうか。換言すると、自治体は、中央政府という壁(制度)の範囲内では市民による「参加」を促進するためにあらゆる手をうっているのか、ということである。残念ながら、この間いに対してわたしは「否」とこたえざるをえない。この理由を自治体職員の意識構造といった面からアプローチし、あわせてこのような意識構造を醸成させる諸制度について言及する。
まず第1は、予算による統制である。「参加」の結果による歳出予算の増加に対しては補正予算をもって対応せざるをえず、かつ、その財源である国庫支出金には種々の条件が付されていることはすでに指摘したところである。さらに、予算は単年度予算が原則とされている(地方自治法208条)ため、当該年度に予算化されたものについては可能なかぎり執行しなければならない。もちろん、予算執行できがたい事情の存する場合には、明許繰越(同法213条)、事故操越(同法220条)等の措置を講ずればよいのだが、職員の意識としてはなるべくそのような事態をまねきたくない。なぜなら、それらの措置は議会の議決を要するので、その責任を追及されることを恐れるためである。したがって、職員意識としでは、「参加」を「抵抗」とみ、できることなら強行突破を、と傾きがちである。しかし、「参加」を無視することは現代自治行政のタブーであり、政治的に困難である。そこで、実態的には、行政はいやいやながらも市民との「交渉」を続けていく。
ところで、「参加」には権利保護のモメントと民主制のモメントの2種類のモメントがあるといわれる◆12。簡単にいうと、権利保護のモメントは、市民には個別的利益を主張する機会が与えられるべきであるといった観点にたち、民主制のモメントは住民がなんらかの方法で行政意思の決定に影響を与えるべきであるという主権者としての住民的視点にたっている。
このような見方で上記の「交渉」をとらえるとき、それはすでに「参加」ではなく、行政による説得と譲歩にすぎないのではないか。なるほど、説得と譲歩もまた行政と権利保護を主張する市民との合意形成のひとつの手段であろう。しかし、このようなやりかたは公開性といった民主制のモメントを欠きやすく、事業の執行を焦る職員にとって住民エゴへの追随を招き、経費の不当な高騰と結果的無計画、多重投資による無駄を生じさせる。
平均的市民にとってもっとも「参加」に適した時機である予算執行過程であるが、平均的市民は権利保護のモメントしかもちあわせず民主制のモメントを欠きがちであるという定理に現在の自治体職員の意識をかけあわせるとき、住民エゴを止揚する自治政府的参加は期待できない。
さて、自治体における「参加」の阻害要因の第2は、国庫の補助金等に対する職員意識である。ここまでの論述では、自治体に対する国の補助金行政が制度的に自治体の自治を侵害し、この結果、市民による「参加」が抑制されるとしてきた。しかし、この論理をより詳しく検討すると、《国・自治体関係》→《自治体・市民関係》と演繹され、中心である自治体自身に対する考察が希薄であった。そこで、ここでは「当事者としての自治体職員」について考えてみたい。
市民の権利を保護し、あるいは市民の広義の参政権としての「参加」機会を保障することは、自治体の任務である。しかし、一方、国(中央省庁)からは憲法上の要請である「地方自治の本旨」を逸脱するかと思われるほど、膨大な量の通達・通知(「補助要網」は通知の一種である)が流されている。
わたしたち自治体職員は、市民からの要望を往々にして「(国の)法律によって決められている」ことを理由に拒否しがちである。市民の要望が不当であると判断し、その判断の権威づけ(残念だが、条例等の自治体立法よりも国の法律のほうが権威あるものという市民意識が存在するように思う)のために「法律」をもちだす場合はまだしも、自治体職員自身による「判断」を回避し、直接「法律」に逃げこむ場合もある。前者のケースはともかく、後者のケースにあっては自治体の存在意義が間われかねない。なぜなら、その「法律」とは実は「通達」にほかならない場合が多いからである。そして、対市民関係ではこのように対処しながら、自治体職員自身に関する、たとえば給与、スト権問題では通達はおろか法律も超え、憲法論で国に議論を挑んでいる。この活力を対市民関係でも発揮できないものだろうか。
なるほど、国の通達(補助要綱等)に無批判に従っていればたいして考える必要はない。きめられたマニュアルどおりに書類を作成する。たとえ、超過勤務になろうが手当は支給される。高い旅費(本市の場合は東京に隣接しているのでそれほどでもないが)を要して少額の補助金を得るために上京しようが、職員個々にとってはそれを公費による旅行のひとつとしでとらえることも可能であり、しかもあくまで公務であるため後ろめたさはない。むしろそのような職務に携わることは誇りであり、旅行は役得であると感じるかもしれない。なにより異なる利害をもつ市民の間の調整といった緊張を要する作業を要さない。仕事は仕事と割りきれば気楽なものである。たとえ、超過負担や多重投資といった無駄があろうと、そのツケは市民(国民)全体のものなので、職員個々にとってはそれほどのものでばない。また、今日のように自治体財源の窮乏期には、たとえ少額の補助金でも受け入れることは首長の要請でもある……。
「参加」における権利保護のモメントについては、権利を侵害されたとする市民からの圧力があるので、職員自体も慎重に対処せざるをえない。しかし、民主制のモメントを保障しようとする動因は職員からはうまれない。これをつくりだすには首長等トップ層を介さねば不可能である。そして、首長がそれに気づかず「参加」を標榜しても、結局、権利保護のモメントの過大化、すなわちエゴの容認にしかいきつかないのではないか。
6 建設管理計画策定手続
これまでに述べてきたことをまとめてみたい。すなわち、特段高い参加意欲をもたない平均的市民にとって、参加の時機は予算の執行過程がのぞましい。そこで、この予算執行過程における参加の可能性を検討した結果、@国庫の補助金といった国・自治体間を規定する制度、A参加を歓迎しない自治体職員の意識構造といった障害が存在すること、を指摘した。また、平均的市民が予算執行過程に参加するという、この参加方式自体の制約として、「参加」の権利保護のモメントは保障されるが民主制のモメントは射程の外にある、といった限界が存することを指摘した。
これらの障害を克服し、とくに「参加」の民主制のモメントを高めるために自治体のとるべき道は、「参加」に有効感を付与する諸制度を整備することである。そして、このような制度が整備され適切に運用されていく過程で、国・自治体間の間係を規定する制度の改善が図られるのではないか。摂津訴訟のような訴訟といった荒療治もときには必要であろうが、市民をバックにした地道な行動の積み重ねがないかぎり市民に対するアピールは弱くならざるをえない。
わたしは、当面講ずべき自治体施策のひとつとして「建設管理計画策定手続」の条例化を提言したい。建設管理計画策定手続を制度化することによって「参加」の権利を手続的に保障するのである。
建設管理計画 Bauleitplane とは西ドイツの連邦建設法 Bundesbaugesetz における概念である。建設管理計画は内容的に2つの計画からなる。ひとつは土地利用計画 Flachennutzungsplanであり、他方は建設詳細計画Bebauungsplanである。行政管理庁(当時)内におかれた行政手続法研究会が1983年11月に答申した行政手続法要綱案◆13(以下「要網案」という。)の第11にほぼ同概念の「土地利用規制計画」および「公共事業実施計画」が規定されている。これらについて、これまでに述べできた観点からコメントしてみたい。
(1) 土地利用規制計画策定手続
第1は、本計画の適用される対象に関する。たとえば西ドイツの場合は、行政手続法の適用されるのは「特定計画(Fachplanung)に基づく個別の事業や施設の設置を最終的に確定する行為が対象となるのであって」◆14、建設管理計画のような総合計画は対象外としている。それは、(ア)連邦レベルの連邦国土整備プログラム、(イ)州レベルのラント整備プログラム、(ウ)その部分領域を対象とする広域的計画、(エ)市町村レベルの地域的計画=建設管理計画、といった国土(土地)利用に関する総合的な計画体系が別個に存在している◆15ことによる。ところが、わが国の場合はこのような総合的な土地利用計画体系がない◆16のに、「他の法律」の定めを優先してしまって(要綱案1112条)は要網案の適用される領域がほとんどなくなってしまうのではないか。「参加」の時機を執行段階から計画段階に早めることによって「参加」の民主制のモメントを強化し、また、計画自体に対して争訟の道を開く(1113条)画期的な要綱案であるだけに、適用対象計画はできるだけ広範であることがのぞましい。
第2は、本計画の策定主体に関する。土地利用規制計画の策定主体は「行政庁」である(1112条)。行政庁には、国(中央省庁)や都道府県、市町村のようにさまざまなレベルが存在し、市が国や県の公共施設の配置計画に意見を述べるといったケースも当然あるが、以下では計画策定主体を市に限定する。
土地利用規制計画の策定に市民が「参加」するその時機は、事業費の予算化の前段が好ましい。なぜなら、計画は「参加」を経て「決定」されるのであるから、「決定」以前に予算化すなわち執行を前提とするのは「参加権」の没却であろう。また、職員レベルでこの問題をとらえるとき、執行を前提とする予算上の制約から職員は解放される。したがって、予算の執行が職務ではなく、計画の策定自体が仕事と意識されるので、「参加」に対してこれまでよりもずっと積極的な態度の形成が期待しうる。
第3は、「参加人」の範囲に関するものである。要網案1112条によると「利害関係人」の意見書提出権が規定されているが、この「利害関係人」の範囲が明らかでない。「参加」の権利保護のモメントのみからいえば、計画区域の土地・建物に所有権、地上権、賃借権等の法律上の権利を有する者が利害関係人であり、それらの権利を有しない者には参加権を付与しないようにも解釈できる。しかし、「参加」の民主制のモメントを考えあわせるとき、当該自治体の住民は市政の主権者として利害関係を有するといえないだろうか。このような観点から条文の見直しが必要と思う。利害関係人の範囲を狭くとった場合、土地所有者=富裕階層のエゴによる土地の有効利用の阻害をまねきやすく、住民自治は形骸化する。平均的市民の脱政治的無関心を活性化することは困難である。
(2) 公共事業実施計画確定手続
第1は、土地利用規制計画の場合と同様に公共事業実施計画の適用される対象に関する。要綱案1121条の[コメント]にみるように、「個別具体の事業」とは鉄道、軌道、空港、道路、運河、河川港湾施設、廃棄物処理施設、し尿処理施設、発電所等である。すなわち、都市計画法11条に規定される「都市施設」とかなりの部分で競合している(都市計画法の対象施設のほうが範囲がひろい)。これに対して、要網案(1121条)では「他の法律」を優先しているので、もし、行政手続法が既存の都市計画法等との調整なしに独立に成立しても適用される余地がない。したがって、建設管理計画の確定手続を行政手続法にもりこむためには、総合的土地法制の整備とあわせて都市計画法制の再編成が必要である。土地は稀少で目減りのしない財産という観点から投機の対象とされ、また、施設の誘致は利権の温床になりやすい。このような日本的風土の転換をめざし、市民のための土地利用を考える手法こそが建設管理計画の策定手続にほかならない。
第2は、公共事業実施計画の内容である。これが要網案にはまったく規定されていない。住民討議の前提として、西ドイツの建設詳細計画と同様に、計画建築物の延べ面積、建築面積、高さが定まった(それにともなって建ぺい率、容積率も自動的に定まる)配置図、平面図、立面図等の基本設計はこの段階で用意されていなければならない。そして、このような基本設計が数案提示されることがのぞましい。
計画確定裁決の排除効(1123条)を定め、計画自体に対して出訴を認めるかわりに計画の確定後は訴訟の提起を認めず、計画にこれまでよりも重要性を付与することによって事業の実施をスムースにおこなおうとするのが公共事業実施計画確定手続である。「参加」の時機を前倒しするものであり、権利保護のみを主張する市民にとっては厳しい規定ともいえよう。このような批判にこたえるのが、詳細な計画案の複数の提示である。すなわち、市民を行政庁の作成した案の単なる「了承者」の地位から、複数の案のなかから最良のものを選択する「決定者」の立場にひきあげる。「参加」に実質的意義を与えることにより、単に権利保護のモメントとするだけでなく、民主制のモメントを強化する。そのことによって、「平均的市民」に権利の行使に随伴する責任をも理解してもらう。
第3は、議会を含む自治体の事務手続に対する影響である。すなわちこれまでの予算化→設計→「参加」といった伝統的事務フローが設計→「参加」→予算化、というパターンに変化する。このことは、予算編成過程の民主化を促すだけでなく、予算執行過程の民主化にもつながる。これまでは、予算という形で金がつけば以後は原則的に議会の関与する余地がなかった。しかし、公式的に議会の関与の機会がないことは、逆に、議員個々の行政庁に対する非公式な利益誘導的働きかけを許してきた。このような構造は、「参加」を予算化の前段に配置することによって改善されるのではなかろうか。なお、このことは議会機能の軽視には直接結びつかない。「参加」の結果に対する計画確定裁決に議会の議決を要する等の措置を講じ、議員個々ではなく議会の機能を拡張することによって、むしろ強化することが可能である。
7 参加民主主義の進展にむけて
前章において、行政手続法研究会の報告した要綱案をもとに、土地利用規制計画策定手続および公共事業実施計画確定手続について若干の私見を述べてみた。しかし、法レベルで可能な規制が条例では不可能であるという場合が多々あるので、以下この点について簡単にふれる。
まず第1は、土地の利用を条例で規制しようとすることが、「財産権の内容は、……法律でこれを定める」という憲法29条2項に違反しないか、という問題である。この問題は、条例で土地所有権を制限できるかという、建設管理計画の条例化に際しての根源的なものである。そして第2は、もし、条例で土地所有権の制限をすることが許されたとしても、その場合の損失補償まで必要ないのか(憲法29条3項)という点である。
これらの問題に関するリーディングケースは、周知のごとく奈良県ため池条例事件(1963年6月26日最高裁大法廷判決)◆17である。「ため池条例」の場合は、ため池の破損、決壊等による災害を未然に防止することが目的であり、公共事業の実施に伴う種々の住民紛争を回避するために市民の事前参加手続を定める建設管理計画条例とはその目的・性格を著しく異にしている。人命に危険をおよぼす災害を防止するために条例で所有権を制限できたとしても、「良好な都市環境を整備する」との理由で土地所有権の内容を制限できるとはかぎらない。また、現行都市計画法制(国土利用計画法・都市計画法等)の目的は「建設管理計画条例」◆18とほぼ同一であり、とくに、都市計画法の地区計画に関する部分は、条例にその具体的手続を授権している(同法16条2項)こともあって同趣旨といえようが、このようななかで「参加」権を付与する市民の範囲を拡大することは「横出し」または「上乗せ」条例として立法可能なのか。
さて、地区計画の法的効果は、従前のとおり行政庁内部の計画にすぎず、市民(関係者)に対する処分性を有さないということから、計画自体を訴訟で争うことはできないと解されている。ここが、今回提起した建設管理計画条例と都市計画法にもとづく地区計画条例との最大の相違点である。しかし、現実的に、建設管理計画条例の立法化を図ろうとするとき、まずは現行法制の内にある地区計画を参加論的観点から充実、強化することが得策であろう。地区計画の適用対象施設を最大限大きくとり、本市の施工するすべての公共施設をその対象とすることを提案したい。このことによって、行政内部の事務フローは大幅に改革される。当然、この改革によって、一時的には行政庁内部ならびに行政庁と市民との間に摩擦が生じようが、これらの摩擦の高まりが地区計画制度の運用改善への契機となり、ひいては建設管理計画条例制定への導火線となる。全国各地の自治体でこのような火花が発火するとき、「まちづくり」の主体が市民の手に移行し、投機対象としての土地、利権としての公共施設誘致といったあしき政治構造の革新につながる。
法的疑問点の解決にむけての努力ももちろん大切であるが、より重要なことは、まちづくりの主体は市民であるという市民自身の自覚であろう。平均的市民にまでこのような自覚が根付くとき、建設管理計画条例は、より発展した形で成立しよう。
大都市の平均的サラリーマンが一生かかっても自分の手にできるかどうかわからない土地や建物。大都市自治体に勤める職員は、自ら勤務する都市に新たに居住することが困難で、周辺都市から通勤(痛勤?)するという現実。市民自身も無力感から政治に背をむけ、つつましやかなマイホームに閉じこもりがちである。
「参加」によって、公共空間を「自分たちのまち」と意識できるようにつくり直そう。職員にとっては、たとえその自治体に住居を有さないとしても、そこは第2のふるさとにちがいはない。
中世・近世の城下町づくりに端的に示されるように、権力者(大名)がまちをつくるというわが国の歴史的展開は、第2次大戦後の高度経済成長期に至るまで脈々と続いてきたように思う。そして、中央集権的なこの流れの延長線上に、全国各地の「○○銀座」という東京のコピーが氾濫している。
都市の主役が平均的市民であるなら、まちづくりは、きわめて自治的事業であるはずである。国の干渉は必要最小限でよい。自治体が「自治」の内実を具備し参加民主主義を実践するとき、それに対応した法体系が整備されなければならない。そのためには、まず、自治体自身が自治体の権能の範囲内で、精一杯市民とともに「自治」的しくみを整えることが大切である。市民の「参加」を抜きにした地方自治は虚像にすぎない。
【註】
◆1 遠藤博也「計画行政法」(学陽書房・1976年)p.280
◆2 小高剛「行政手続と参加」(雄川一郎・塩野宏・園部逸夫編『現代行政法大系【3】行政手続・行政監察』有斐閣・1984年)p.109
◆3 小高・前掲論文p.108では、@高度の工業化の成熟に伴う都市問題、公害問題の激化、A都市化現象に伴って生じる問題解決のための行政の計画化の要請、B経済的弱者に対する積極的な福祉政策の遂行、Cこのような状況の中での住民運動の台頭、などを例示している。
◆4 中村義知『現代の政治』(法律文化社・1970年)p.121
◆5 中村・前掲書p.122
◆6 「政治的疎外」とは公共の事件を白分に無関係な出来事とみ、政府は「私の政府」ではないと考え、憲法は「私の憲法」ではないと考えるように、政治と自分との間に一体感がなく、むしろ疎外感、すなわち、違和感・無意味感・不満感・不信感・無力感をもち、政治において自己実現あるいは自己表現がはばまれていると感じる状態をいう。ところが、疎外感を抱いている人びとは、現状とは異なった政治のありかたの可能性を知っているし、そのうえ、それにもかかわらず自分がそれから疎外されていることを苦痛に感じている、とされる(中村・前掲書p.124〜125)。
◆7 小松秀煕「川崎市における市民参加の実験」(磯村英一監修、坂田期雄編集『市民参加のまちづくり』地方の時代/実践シリーズ7 ぎょうせい・1983年)p.121
◆8 石原信雄『地方財政法逐条解説』(ぎょうせい・1976年)p.26
◆9 註(8)に同じ
◆10 訴訟にいたる経過ならびに摂津市、国の主張は、遠藤晃「福祉財源の負担をめぐる争点---摂津市の超過負担訴訟を手がかりにして---」(ジュリスト臨時増刊572号『特集・福祉問題の焦点』有斐閣・1974年)p.44〜に詳しい。また、摂津訴訟に対する国(厚生省、自治省)の反応は、坂田期雄『新時代の地方自治2・危機の自治体財政』(ぎょうせい・1978年)p.240に紹介されている。
◆11 同趣旨、坂田・註(10)書p.241〜
◆12 小高剛「住民参加の法制度的展開」(原田尚彦・兼子仁編著『自治体行政の法と制度・「地方の時代」の地方自治X』学陽書房・1980年)p.118、127および同氏・前掲論文「行政手続と参加」p.102
◆13 要綱案の全文は、成田頼明『行政法序説』(有斐閣・1984年)p.257〜および前掲『現代行政法大系(3)行政手続・行政監察』p.363〜等に紹介されている。
◆14 成田頼明「行政手続の法典化の進展」(『田中二郎先生古希記念・公法の理論下T』有斐閣・1977年)p.1709。特定計画の例としては、連邦インミッション防止法に定める他人に迷惑を及ぼす施設の認可手続、耕地整理計画の策定手続、電信線の新設・変更、立体交替施設の建設・変更・除却、連邦長距離道路の建設・改良、軌道の新設・変更、空港・飛行場の新設・改良、排水施設・堤防の建設、連邦水路の建設、廃棄物処理施設の設置・操業等があげられる(成田・同論文p.1710)。
◆15 宮田三郎『行政計画法・現代行政法学全集4』(ぎょうせい・1984年)p.144〜145
◆16 読売土地問題調査会は、1985年5月12日、「21世紀の日本を支える土地政策の確立を」という提言を発表した。この提言は、わが国では国土、地域にかかわる計画法は20以上あり、これに付属、関連立法の計画を加えると40近くに達するという。そして、これら数多くの法律は、拘束力、実効性に乏しいうえ、相互の整合性が確保されておらず、開発の対象、目的、指定地域などが重複、競合している例が少なくない、と指摘している(読売新聞社『THIS IS』1985年7月号p.120〜とくにp.124)。
◆17 本判決は「ため池条例」による土地所有権の制限を合憲とし、また、それに伴う損失補償も必要ないとした。阿部照哉・池田政章編『憲法判例[増補版]』(有斐閣・1977年)p.86、および藤田宙靖「公用制限と損失補償」(雄川一郎編『行政判例百選U』別冊ジュリスト62号・有斐閣・1979年)p.308等参照。
◆18 建設管理計画策定手続(土地利用規制計画策定手続および公共事業実施計画確定手続)は、わが国にあっては、行政手続法要綱案における概念である。「手続による行政」といった観点から、統一的行政手続法(条例)の成立を期し、そのなかに建設管理計画策定手続が規定されることを筆者も願っているが、ここでは、行政手続法(条例)の中から建設管理計画策定手続にかかる部分を独立させ、仮に「建設管理計画条例」と呼ぶ。

川崎市 山口道昭 1985年8月記

 
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