21世紀を展望した科学技術と日本の社会
−−−科学技術の発達統制について考える−−−
【目次】
第1 科学技術の発達と現代国家
1.科学技術の発達と国家の関係
2.現代国家の活動領域
3.行政国家現象の不可避性
第2 国家による科学技術の統制方法
1.現代行政の依存する法
2.管理型法の特徴
3.行政裁量の統制方法
(1)裁判所による裁量統制
(2)国会による裁量統制
第3 社会による科学技術の統制方法
1.開発者による自主規制
2.行政指導
3.社会団体としての行政
(1)規制的情報政策
(2)デ−タ保護条例
(3)普及・推進的情報政策
第4 21世紀の科学技術と国家・社会
1.国民自治と国際社会
(1)住民自治と国民自治
(2)国際社会の同時性
2.国際的市民主権社会の科学技術の発達統制

【要旨】
科学技術の発達はめざましいが,その発達の方向は万人によって承認されているわけではない。そこで,それらの間の調整がなされなければならず,そこに政治の役割がある。
さて,現代の国家は福祉国家とよばれるように,その活動領域は大きい。そして,その中心は行政権である。しかし,行政国家を承認したとしても,行政裁量は一定の枠の中で認められるべきであり,当然のことながら万能ではない。したがって,司法機関,立法機関による裁量統制の方法が再検討されなければならない。
実体法的統制方法は,科学技術といった動的分野には適用がしづらく,また,科学技術の発達の不可逆性といった性質を考えるとき,事後統制ではその役割が半減する。したがって,事前統制的手続法による立法統制が有益であろう。
ところで,科学技術の統制は,行政権を中心とする国家によるものだけで十分だろうか。
権力的契機を有する国家による統制だけではきめ細かさに欠ける。したがって,開発者による自主規制といったことが問題となる。だが,その自主規制には開発抑止者の意見が反映されない。そこで,再び行政は,今度は非権力的な行政指導といった手法でもって登場してくる。
ところで,行政と一口にいってもその主体はひとつでなく,国家レヴェルの内閣のほかに地方レヴェルの地方公共団体が存する。地方公共団体のほうが,社会学的にみて非権力的行政主体であり,住民合意形成システムの構築に積極的である。
しかし,国家といえども,今日では国際社会の一員として存在し,権力主体としてのみ存在しているわけではない。社会的な存在なのである。
その社会団体的国家の主役は個々の市民である。市民が社会・国家をつくり,それらをとおして科学技術の発達統制を計るのである。

【本文】
第1 科学技術の発達と現代国家
1.科学技術の発達と国家の関係
現代科学は加速度的に発達している。たとえば,アルビン・トフラ−氏(1) は新しい科学の分野として量子電子工学,情報理論,分子生物学,海洋学,原子核工学,宇宙科学及び計測技術をあげ,それらの「第3の波」が引き起こす社会変化について述べている(2)。
では,この「第3の波」の発生源は那辺にあるか。
もちろん軍事技術といった分野では政府主導となろうが,わが国のような自由主義国家の場合,一般的には民間大企業が開発の主体となろう。すなわち,大企業による経済的競争が「第3の波」の源である。その波動によって,政治・社会システムが変容していく。
しかし,大枠ではこのように言い得ても,現代社会の成員は多様な価値観を持っており,ある分野の技術発達に対して抵抗を示す場合が多々ある。「原発反対」,「バイオテクノロジ−は神の冒涜である」,「コンピュ−タ−による国民総背番号制反対」と言ったごとくである。したがって,「第3の波」に関して国民の間に見解の対立が存する以上,政治が経済の背後に退きその機能を必要としなくなるというわけではない。むしろ,科学技術の不可逆性といった性質を考えるとき,科学技術の発達に対するコントロ−ルの必要性は大であるというべきである。
(1)アルビン・トフラ−著,徳山二郎監修・鈴木健次・桜井元雄他訳『第3の波』(1980年・日本放送出版協会)。
(2)富田信男「ニュ−メディアと政治過程」(ジュリスト増刊『高度情報社会の法律問題』所収) 184頁以下参照(1984年・有斐閣)。なお,第1の波とは農業革命,第2の波とは産業革命であり,それらに対して「第3の波」がある。
2.現代国家の活動領域
国民の間の紛争解決,予防機能を果たすのは現代国家の役割のひとつである。たとえば,遺伝子操作におけるガイドライン(3) のような研究者の間の倫理規範に関しても文部省,科学技術庁等の行政機関が関与している(4)。この場合,遺伝子操作に関する研究者の完全に自由な研究は生物そのものに対する支配につながり,自然界のバランスの破壊ひいては生物としてのヒトの操作,人格の尊厳を根底から崩壊させる危険を有するから,研究者の間の倫理規範といえども国家の関心の的になるのである。
すなわち,国家は法による執行義務を負わないときでも,ときにはむしろ積極的に国民の間の社会関係に介入してくる。たとえ国家の活動領域を可能な限り小さく封じ込めようとする論者によっても,このような積極国家現象を19世紀的夜警国家観によって完全に否定し去ることはもはや不可能であろう。
(3)中村桂子「生命科学と倫理」(ジュリスト増刊総合特集32号『技術革新と現代社会』所収) 210頁以下,特に 213頁参照(1983年・有斐閣)。
(4)同上 215頁「組換えDNA実験指針の通知フロ−図」参照。
3.行政国家現象の不可避性
では,現代国家の積極性を認めた場合,その特徴は立法権,司法権,行政権の3権のうちどこにもっとも顕著に現れるか。
立法権は国家権力の行使を法律によってコントロ−ルする。しかし,法律はそもそも抽象的な規範であり,具体的なきめ細かさに欠けている。国家権力の行使を限定的に考える夜警国家の時代にこそもっとも適合的であったといえよう。
次に,司法権は原則的に行政を事後的にコントロ−ルする。
行政過程のステ−ジをいくつに設定するかは論者によって異なるが,たとえば遠藤博也氏は次の5つに区分している。すなわち,立法,処分,強制,補償及び争訟がそれである(5)。処分,強制といった行政の先攻に対して,私人が争訟段階で後攻(ないしは守備)を行うのである。したがって,仮に司法権に積極性を認め,司法権の介入領域を広くとらえる立場に立ったとしても,司法権限の発動に事件性が要求される以上,司法の公益的判断対象は行政より狭くならざるを得ない。そしてさらには,その事後統制機能も行政の高度の専門性,技術性と裁判の採る技術的性質により,かなり制限的にしか働かない。つまり裁判所は独自の専門技術スタッフをもたないので,原告・被告の提出する証拠によって事実の認定を行わなければならないが,裁判の使用する厳格で形式的な審理・証拠手続きによっては権利侵害の存否,責任の有無などを社会一般の正義・衡平感覚に合致するような形で認定することが難しいからである。裁判における立証責任の分配原理によっては,ある事実があったかなかったかという「全か無か」の2分法的思考方法が採られるので確率的な事実認定をなすことができず,白・黒の決着をつけざるを得ないのである(6)。また,金銭賠償による事後救済を原則とする判決によっては,十分に被害者の救済をすることができないからである(7)。
以上により,国家の活動領域の拡大化現象の担い手は行政権であることがわかる。科学技術の発達等の社会関係のきめ細やかな管理は立法権の手に余り,また,司法権は行政権の補完的役割に甘んずるほかないのである。
(5)遠藤博也「行政法スケッチ」(『法学教室』59号所収) 102頁(1985年・有斐閣)。なお,遠藤・同上68号66頁参照(1986年・有斐閣)。
(6)田中成明『現代日本法の構図』86頁(1987年・筑摩書房)。
(7)同上 201頁参照。
第2 国家による科学技術の統制方法
1.現代行政の依存する法
現代国家の科学技術に対する統制が主として行政権によってなされているとしても,そもそも行政権は立法権によってその活動領域を限界づけられていたはずであった(法の支配,法治行政)。ところが,社会成員間の利害関係が複雑になるにつれて行政による社会への介入機会が増加し,そのことを法律が承認するに至った。行政統制のための法律でなく,社会管理のための法律が現代型法律の特徴である。
このような法律を田中成明氏は「管理型法」と呼んでいる(8)。
(8)田中・前掲『現代日本法の構図』 136頁以下参照。
2.管理型法の特徴
管理型法は,政策の基本的内容やその実施にあたる機関の組織,権限,活動基準,手続などを規定するものが多い。法律の対象は行政機関や利害関係人であり,一般私人ではない。したがって,私人に対する関係では間接的な規範であるので,このことからも伝統的な司法統制になじみにくいものといえる。
管理型法の目的は,具体的には行政機関によって実現される。そこで,法律の適用に際して広範な専門技術的裁量権が行政機関に付与されている(9)。
(9)田中・前掲『現代日本法の構図』 151〜152頁参照。
3.行政裁量の統制方法
現代国家にとって行政国家現象が不可避だとしても,一つの機関による権力集中が政治の腐敗を生みやすいことは歴史が証明している。したがって,行政機関の裁量権を肯定する立場からは,その行政裁量を合理的範囲内に限定させる理論が必要となる。
まず,その統制主体を裁判所として,検討してみよう。
(1)裁判所による裁量統制
法律は,具体的にどのような形で行政に裁量を付与しているか。
たとえば,原子炉等規制法をみると,24条1項4号に「災害の防止上支障がないもの」といった条文がある。この規定からは直ちに一義的,明白な解釈が引き出されるものでなく,この規定を解釈して具体的に適用する際にはその判断に幅が生じるのは法律が容認しているものといえよう。このような概念は行政法学上「不確定(多義)概念」と呼ばれている(10)。
そして,このような不確定概念の解釈適用にあたっては,一般的に,行政に政策的・専門技術的裁量が認められる(11)。この行政裁量の行使を裁判所は審査するのであるが,その審査方法について宮田三郎氏は次の4点を指摘している(12)。
第1は,不確定概念に該当する事実が存在するかどうか,要件事実の認定に誤りがないかどうか。第2は,明文の手続規定はもちろん,公正な行政手続の原則に反していないかどうか。第3は,一般に該当する判断基準に反して決定がなされていないかどうか。第4は,行政決定が他事考慮に基づくものでないかどうか,についてである。
裁判所は行政裁量の行使を,以上のような実体的・手続的審査によってコントロ−ルするが,先にも述べたように,事後のチェックでは,不可逆的な科学技術の発展を十分に統制できない。
そこで,事前のチェックを考えると,民事訴訟法における仮処分(755条以下),行政事件訴訟法における執行停止(25条以下)の制度があるが,それらは科学技術の統制といった専門技術的分野ではほとんど機能し得ないのではないか。なぜなら,裁判で問題となるほどの専門技術的分野の論争が疏明(13)できるとはとうてい考えられないからである。
したがって,裁判所による行政裁量の統制は,事後的には一定範囲で可能といえても,事前的には不可能といわざるを得ない。
そこで,事前統制の手段を探るが,もっともオ−ソドックスなものは,やはり立法による統制である。
(10)田村悦一「不確定多義概念」(ジュリスト増刊・成田頼明編『行政法の争点』所収)88頁(1980年・有斐閣),宮田三郎「裁量統制」(日本公法学会『公法研究』48号所収)175〜176頁参照(1986年・有斐閣)。
(11)なお,宮田・同上 177頁,同氏「行政裁量」(雄川一郎・塩野宏・園部逸夫編『現代行政法大系2・行政過程』所収)55〜57頁(1984年・有斐閣)は不確定概念を認める立場が必ずしも行政裁量の根拠づけに結びつかないと主張する。不確定概念の問題を行政権と司法権との権限配分の問題ととらえるのである。
(12)宮田・前掲『公法研究』所収論文 175頁。
(13)仮処分における疏明につき民訴 756,740A,執行停止における疏明につき行訴25C。なお,ある事項について裁判官が確信を得た状態(またはかかる確信を得させようとする当事者の努力)を証明といい,それに対して疏明とは,その程度には至らずに,ただ当該事項が一応確からしいとの推測を得た状態(またはかかる推測を生ぜしめようとする当事者の努力)をいう(三ヶ月章『民事訴訟法』【第2版】 423頁,1985年・弘文堂)。
(2)国会による裁量統制
法律の授権に基づく行政権の自由な行使を行政裁量と呼ぶ。それにもかかわらず,再びここで国会による裁量統制を問題にするのは以下の理由によるものである。
すなわち,管理型法にあっては伝統的な司法統制になじみにくく,そのため裁判所によっては行政の裁量権の範囲を明確にすることができない。また,よしんば行政裁量の範囲を明確にし得たとしても,それはあくまで事後的なものでしかない。しかし,科学技術の統制は,事前的であることによってこそ社会的に高い意味を持つ。とするならば,先に述べた行政裁量の定義にかかわらず,立法による裁量統制について今一度考えてみる価値があるのではないか。
ところで,法律が不確定概念を規定し,行政に迅速な社会関係の調整を授権せざるを得ないほど,今日の社会は複雑かつ錯綜している。したがって,近代自由法時代のように,実体法をもって行政の活動を細部まで統制しようとするのは現実的でないし,また,すべきでもない。そこで今,必要な立法は手続法であると考えられる。
一般行政手続法の必要なことは,すでに第1次臨時行政調査会(第1臨調)において,行政手続法草案が発表されていた(1964年)ことでもわかる。この草案は周知のとおり,現在に至るまで立法化されてはいないが,その影響は第2臨調第5次答申(最終答申)(1983年 3月)や旧行政管理庁の行政手続法研究会報告(要綱案)(同年11月)(14)にも及んでいるのである(15)。
また,手島孝氏は次のように述べ,「現代の立法」として行政手続法を論ずる場合の出発点とする。すなわち,「社会内部の利害と思想がいよいよ多元化し対立抗争の度を高める現代にあっては,およそ政治的決定は,その任とする社会統合の機能を果すに不可欠なその正当性を,もはや調達きわめて困難ないし不可能な決定内容の実質的な正しさ”によりは,むしろすぐれて,予め社会的に合意された“決定形成の手続”の履践に求める他なくなりつつある」(下線は原文)(16)と。
特に科学技術の分野では,たとえば原発の安全性を考えるとき,絶対的基準をもってしてはほとんど原発立地の否定となってしまうので,法的な安全基準(17)の設定をもって満足せざるを得ないであろう。すなわち,立法・行政・司法等の政治装置は科学技術の発達に関して実体的正当性を付与することはできず,「手続による正統化」をもって代置せざるを得ない。これをやや誇張的にいいかえると,「手続が実体を創る」といい得るのではないか(18)。実体法と手続法の接近化現象である。
とするならば,手続の法定化は,国会による行政裁量の統制に威力を発揮するだけでなく,行政裁量自体をも手続法的・実体法的に意味づけるものといえるのではないか。
ただし,立法による裁量統制には,主に行政能率の観点から,以下の限界が存しよう。
@行政手続不要式性の原則(19) 行政手続法の適用対象をどの範囲に絞るか。また,それぞれの対象領域でどのような手続の履践を求めるか。手続による正統性付与と行政能率との調和が要請されるが,法律によっては,すべてをきめ細かく規定できないであろう。
A手続瑕疵・形式瑕疵の法的顧慮の制限(20) 軽微な手続瑕疵・形式瑕疵のゆえ行政行為等の効力を否定するのは妥当でない場合も多々あると考える。
B「手続のための手続」批判(21) 現代国家において行政国家化現象が進む背景には,複雑多様な社会紛争に対して,積極かつ迅速な国家介入が要求されているという面がある。したがって,行政手続の過度な履践によって国家介入の適切な時機を失うならば,そのような行政手続は社会的要求に反することになってしまう。
科学技術の分野における行政裁量の統制は,手続法の整備によって大きな効果をあげることができるが,当然のことながら以上のとおり,それにも限界がある。
その残った領域の拡大が行政国家化現象の実体であるということができよう。
(14)成田頼明『行政法序説』 257頁以下(1984年・有斐閣),前掲『現代行政法大系3・行政手続・行政監察』 363頁以下(1984年・有斐閣)。
(15)植村栄治「日本における行政手続法の制定」(前掲『公法研究』46号所収) 184頁以下(1984年・有斐閣)および雄川一郎「一般行政手続法の立法問題」(前掲『公法研究』47号所収) 122頁以下参照(1985年・有斐閣)。
(16)手島孝「『現代の立法』としての『行 政手続法』」(同上『公法研究』47号所収) 138頁。
(17)法的安全基準とは,自然科学による安全基準ではなくて,どの程度のリスクならばこれを無視し我慢することができるかという社会的な安全基準である(宮田・前掲『公法研究』所収論文 176頁)。
(18)手島・前掲論文 140頁参照。
(19)同上 149頁参照。
(20)同上 149, 157頁参照。
(21)同上 157頁参照。
第3 社会による科学技術の統制方法
1.開発者による自主規制
では,行政権を中心とする国家活動だけで,科学技術の適切な発展を計ることができるのだろうか。
管理型法によるきめ細かな社会管理といっても,行政権の背後には強制装置を具備する権力が控えており,そのような行政権の基本的性格から,自ずと管理の方法に限界が生じる。したがって,よりきめ細かな管理ル−ルの設定は関係当事者によって行われる必要がある。
ここで,関係当事者とは,開発に消極的な個人(グル−プ)を含むが,そのような消極グル−プの参加が公式的に承認されているわけではないので,上のル−ルを設定主体に注目して,開発者による自主規制と呼ぶことにする。
さて,自主規制についてであるが,バイオエシックスを例に若干の考察をしてみよう。
バイオエシックス(生物倫理学)とは「ライスサイエンスとそれに基づく技術開発およびその利用……に関わる人間の行為を,その社会が持つ価値観,文化,歴史,科学的知識などに照して系統的に研究し,その行為に関する社会の中での約束をつくり上げていく分野」(22)である。その具体例として,前述の遺伝子操作におけるガイドラインが位置している。
バイオエシックスが学問であるなら,本来はそのような分野に対して,国家は干渉しないほうがよいともいい得る。しかし,実際には先に述べたように,文部省,科学技術庁等の行政機関が関与している。しかも,その関与形態は法的なものでなく,「通知」といった行政指導に基づくものである。
権力的契機を持つ行政機関による「指導」は不可避的に必要なものなのか,それとも開発者による自主規制が適切に行われるならば不必要なもので,補充的なものにすぎないのか(23)。
(22)中村・前掲「生命科学と倫理」 213頁。
(23)森村進氏は,欧米に比べて日本ではバイオエシックスに関する議論が不活発だという(1987年 7月14日付け朝日新聞夕刊)。このことと行政指導とのかかわり合いはあるのか。
2.行政指導
実は,行政指導の問題を「第2 国家による科学技術の統制方法」で取り扱うか,それとも本章「第3 社会による科学技術の統制方法」で取り扱うかについては,大いに迷った。行政指導の主体は当然行政であり,社会現象とはいいがたいからである。
しかし,行政指導とは,「行政庁が行政目的を達成するために,助言・指導といった非権力的な手段で国民に働きかけ,国民を誘導して,行政庁の欲する行為をなさしめようとする作用」(下線は引用者)(24)であるとするならば,権力的契機を伴わないことに注目して,むしろ社会的な事象として取り扱うことも許されよう。
ということは,逆にいえば,ここでは権力的契機を有する行政指導は「行政指導」として取り扱わないということを意味する。したがって,前述の行政手続法要綱案(25)にみる規制的行政指導は,社会現象ではなく,法現象として取り扱われるのである。つまり,ここで問題となる行政指導は,助成的な行政指導だけ,ということになる。
社会的な事実現象としての助成的行政指導であれば,開発者にとっては歓迎こそすれ,それを拒む理由はないであろう。しかし,行政からすれば,行政にとって必要であるからこそ行政指導を行うのである。とするなら,その行政指導が一見助成的であったとしても,やはり公益的判断を背後に潜ませた規制的契機が存在するといえないだろうか。しかし,その規制的契機はあくまで潜在的であり,事実的圧力として存在するにとどまり,法的権力に転化することはないのである。否,そのような行政指導のタイプを助成的行政指導と定義するのである。
新しい科学技術の開発に対する行政介入は,行政指導を前述のように限定的にとらえる場合,社会的に有用だと考えられる。なぜなら,科学技術の開発者には,いわば「専門バカ」的暴走の危険性があり(現代のフランケンシュタインの恐怖!),一方,開発抑止者に参加権が認められていないからである。行政は,公益という名分をもって,対等な当事者として,抑止者の代理人的役割をまっとうすべきである。
しかし,これは次善の現状追認的選択であり,今後の科学技術の統制論の進むべき最善の道は,生命科学の分野だけにとどまらない,エシックス(倫理学)の進化であろう。また,それとともに,抑止者の参加権といった形で,手続に関する法の整備も必要だと考える。
(24)原田尚彦『行政法要論』【全訂版】 163頁(1984年・学陽書房)。
(25)要綱案第13は規制的行政指導手続につき規定している。注(14)参照。
3.社会団体としての行政
助成的行政指導を行う行政は,その限りでは定義上,権力主体ではあり得ない。
すなわち、行政は,公権力の行使の主体である面と、非権力作用の行使の主体である面とを合わせ持っている。そして、科学技術の発達統制といった現代行政の先端分野では、その作用形式の専門技術的・手続的性格のゆえに後者の面が強く現れている(26)。前者を統治機構としての行政と呼ぶとすれば,後者は社会団体としての行政ということができよう。
とはいえ,行政が社会団体として行動しているときであっても,規制的契機は潜在化しているだけで,消滅したわけではないことはすでに述べた。その無言の圧力が相手方(私人)の行動にどのような影響を与えるかは,双方の心理的な力関係によるといえよう。
さて,その無言の圧力が小さければ小さいほど,行政は社会団体としての側面を強くしているといえる。そうしてみると,国家に比べて,地方公共団体は,より社会団体的側面を強くもっていることがわかる。
この点につき,情報政策を例に若干の考察を行おう。
(26)岡田雅夫「行政主体論」(前掲『現代行政法大系7・行政組織』所収)36頁以下参照(1985年・有斐閣)。
(1)規制的情報政策
ところで,情報政策と一口にいっても,その指向するところによって大きく2つに分けられる。第1は,都市のインフラストラクチュア(下部構造)としての情報設備の普及・推進政策である。そして第2が,上のインフラを利用する情報産業に対する規制政策である。第1の普及・推進的情報政策については後に述べることとし,まず,ここでは第2の規制的情報政策について考えてみよう。
規制的情報政策の対象の第1は,各種の情報・通信事業者である。たとえば,テレビ・ラジオ等の放送事業者,電気通信事業法による第1種,第2種電気通信事業を行う者は,多かれ少なかれ公共性といった観点から規制を受けている(27)。
そして,規制対象の第2は,より一般的に,情報処理を行う者である。コンピュ−タによる情報処理技術の飛躍的発達によって,デ−タの蓄積・検索・加工等の複合的処理が容易になった。このことは,第1次デ−タの重要性を増大させたのである。そこで,そのようなデ−タ処理を行う者に対する規制の必要性も高まることになった。
国・県・市等の行政は,自ら巨大なデ−タ・バンクを形成しており,そのデ−タの収集・利用等に対する規制も当然行わなければならない(情報公開法,行政手続法等)。しかし,それとともに,民間のデ−タ処理業者に対する規制もまた重要なのである。
(27)たとえば,放送法51(放送番組の編集等)以下,電気通信事業法4C(電気通信事業従事者の守秘義務),41, 43(電気通信設備の維持・管理上の義務),36,37(郵政大臣による業務改善命令)。高田昭義「電気通信事業法案の概要」(前掲『高度情報社会の法律問題』所収)51頁参照。
(2)デ−タ保護条例
デ−タ保護(プライバシ−保護,個人情報保護)に関する国の立法化の動きもないわけではない。1986年12月には総務庁行政管理局内の学識者研究会が「行政機関における個人情報の保護対策の在り方について」と題する提言を行っている。しかし,この提言では,規制対象は公的部門だけで,民間部門はその対象になっていない(28)。
これに対して,近年制定もしくは改正されたおおかたの市区町のデ−タ保護条例は,規制的行政指導といった形態ではあるが,民間規制に関する規定を設けている(29)。
国と地方公共団体(市区町)とでは,デ−タ保護に対する取り組みに上のように差がある。この原因は,その規模の大小,規制対象の多寡等多くのものが考えられるが,それを一言でいうならば,市区町(村)の社会団体的性格の強さに帰着することができる。
たとえば,デ−タ保護条例の規制手法をみると,条例といったフォ−マルな規制方法でありながら,指導,勧告,公表といったゆるやかな方法が採られやすい(春日市,川崎市,島本町,御津町,杉並区)(30)。この理由は,市区町村による規制が,社会学的にみて,自主規制と公権的規制の中間形態に属すると解釈することによって,すなおに理解できよう。極端な場合を想定すれば,市区町村は,国法に基づく権力的規制を行うときといえども,処分相手方の同意を求めるといった形で,非権力的な作用形態を採ることもあり得るのである。
デ−タ保護もしくは情報政策といった法的統制の対象・手法につき議論の存する分野に対しては,公権的介入は慎重にならざるを得ない。したがって,統治機構としての行政の介入は行われにくく,その分,社会団体的行政機関=市区町村の先導的役割が大きいということができよう。
(28)兼子仁「個人情報保護条例をめぐる法問題」(『地方自治職員研修』255号所収) 104頁(1987年・公務職員研修協会),同氏・同260号 102頁参照。
(29)同上260号 103頁。
(30)同上 103頁による。
(3)普及・推進的情報政策
次は,普及・推進的情報政策について考える。
普及・推進的情報政策とは,都市のインフラを高めることを目的とした,電気通信設備を提供する事業の育成政策である。なぜ,行政は,このような政策を採る必要があるのか。高度情報社会といった概念から考えてみたい。
高度情報(化)社会とは,知識・情報が大きな支配力を持つ社会であり,資本・労働・技術といったものが支配的であった工業(化)社会と区別される(31)。そして,知識・情報が支配力を持つとすれば,自由経済の社会で勝者になろうとする者は,それらを競って求める。だが,社会のインフラが高度化されない限り,知識・情報の入手には限界がある。そこで,社会のインフラを高めようと彼らは努力するが,その整備は大事業であり,政府の助力なしではやっていけない。一方,政府としても知識・情報を求めていることに変わりはない。否,もっとも知識・情報を求めているのは政府といえるかもしれない。
政府が知識・情報を求めるのは,端的に言えば,国民の支配のためである。とは言っても,現代民主主義社会では,裸の権力による支配が正当性をもち得ないのは当然である。したがって,現代行政は,いやおうなしに,デ−タに基づく計画的・科学的行政といった面に対する指向をもたざるを得ない。だが,このような指向は権力的契機に淘汰されやすいので,情報公開法といった形でサポ−トすべきである。
ところで,社会団体的要素の強い行政機関,特に市区町村にあっては,他団体との競争といった契機が存する。そこで,市区町村は,自らの事業者的動因によってインフラ整備を促進する場合がある。そのような動因によって,普及・推進的情報政策を行う市区町村は,高度情報社会において勝者になろうとする経営者と同様の動機に基づき行動しているといえよう。すなわち,「地域経営」といった言葉に端的に表わされるように,市区町村は地域の経営者として地域のインフラを高めることによって地域経済の活性化を計り,住民福祉の向上に充てる財源を捻出する。
また,市区町村は,社会団体的性格の強さから権力的手法を採りにくいので,いきおい,住民の合意形成システムの構築に積極的に取り組まざるを得ない。「参加行政」といったカテゴリ−を形成する住民参加に関するシステムづくりがそれである。いわゆるニュ−メディアを使ったシステムとしては,川崎市の,BBS(電子掲示板)を使用した市民との対話システムによる街づくりの実験(32)などが注目に値しよう。
(31)「高度情報社会の展望(座談会)」(前掲『高度情報社会の法律問題』所収)11頁・下河辺惇氏発言参照。
(32)川崎市は,東京工業大学熊田禎宣研究室の協力を得て,パソコン通信の機能のひとつであるBBSを設置し,街づくりに「電話や手紙より数段レベルの高い『市民参加』」を行おうとしている,という(1987年 5月30日付け朝日新聞[川崎版])。なお,同年 8月28日付け朝日新聞[川崎版]参照。
第4 21世紀の科学技術と国家・社会
1.国民自治と国際社会
(1)住民自治と国民自治
これまでは国家と社会を区分けし,その中間に地方公共団体(市区町村)を位置づけ,科学技術の統制方法につき述べてきた。
ところが,地方公共団体は,当然のことながら国家統治権の一翼を担っている。地方公共団体の自治権の根拠を前国家的にとらえる,いわゆる固有権説の立場にあっても,機関委任事務といった領域では,知事・市長等は国の機関として立ち現われるのであり,地方公共団体の統治機構としての性質は否定しきれまい。しかし,すでにみたように,地方公共団体,特に基礎的自治体である市区町村の果たす社会的機能は,高権的行政権だけにあるのではない。国に比較して,住民自治的統制に服しやすいということができよう。
ところで,住民自治とは,住民が国家機関の統制を受けない自由な領域の存在を確保すること,ということができる。これと同様の言い方を国家レベルでするとすれば,国民自治とは,国民が国際機関の統制を受けない自由な領域の存在を確保すること,となる。国家レベルでは国民自治とはいわず,一般的には国民主権と呼ばれている。
国家が対外的に主権を有することは自明なこととして現代ではあまり論議にならないが,対内的な主権が国民に存する(憲法1条)以上,国民による自治といった観点から国民主権を考え直すことは,現代でも意味をもち得よう。すなわち,国家といえども,国民と対Lする権力的側面のほかに,社会団体としての側面を合わせ持つ。そして,そのような国家が,福祉国家としてその活動領域を大きくしていくとき,国家の社会団体としての側面を相対的に拡大することが,より民主的なのである。
また,一方,今日の国家をとりまく環境は,国家の自由な領域を狭めている。したがって,主権国家といった言い方で国家の独自性を対外的に強くアピ−ルするより,国家の機能は制約的であることを承認し,その範囲内で国民の自由な領域を確保しようとする国民自治の考え方のほうが,より実態を反映しているのではないか。国際社会の中での「社会団体としての国家」の承認である。
(2)国際社会の同時性
国際社会の中で国家を見ると,現代では,経済の同時性(低成長,貿易不均衡の是正圧力),政治の同時性(小さな政府,ネオ・コ−ポラティズム,強い国家)とともに科学技術の同時性といったことも問題になる。それには,倫理の同時性といったことも含まれるだろう。
ところで,軍事技術といった分野は,戦争が国家を単位として行われると考えられる限り,国際的同時性は要求されない。しかし,たとえば宇宙開発といった分野のように,軍事技術とその平和的応用分野の区別は画然とはしていない。したがって,軍事技術といった国家の壁が高い分野にあっても,その壁内は完全に閉鎖されているわけではない(33)。つまり,このような分野に関する技術であっても,国際的同時性の波から完全に逃げることは不可能なのである。
さて,核兵器の地球的規模での破壊について,人類による国家を超えた合意が形成されるならば,平和は大枠では維持できるであろう。とするならば,軍事技術の周辺に位置する科学技術の国際的同時性は,今後も高まりこそすれ,低下することはないのではないだろうか。
(33)もっとも,ココム(対共産圏輸出調整委員会)のように戦略上の重要資材の貿易を制限する機構も存している。
2.国際的市民主権社会の科学技術の発達統制
啓蒙哲学の祖ジョン・ロックは「生命・自由・財産」=プロパティ(固有権)(34)といったキ−ワ−ドによって中世から近代を臨み見た。もちろん,当時のイギリス国民のすべてがプロパティを得ていたわけではないが,それらを備えたいわゆるジェントリを念頭に,ロックは理論的近代を構築してみせた。そして,その理論的近代を土台に現代が成り立っている。また,その理論的近代を大衆レヴェルで実現したのが現代である。つまり,現代の市民(国民)は国家の主権者となった。
しかし,これからの21世紀の市民は,そこで足踏みしていてはならない。世界的な同時性の中で,しかも,通信技術の飛躍的発展によって,個々の市民が対面的に国際交流を行う時代が21世紀である。したがって,そのような時代にあっては,地球社会規模での国際的市民主権が確立されるべきである。
とはいえ,個々の市民は単独ではあまりに無力である。科学技術の発達統制の責務が根本的には個々の市民にあるとしても,市民の集合=社会としての地方公共団体,国家さらには国際機関の役割もまた大きい。そして,そのうち最も期待すべきものは,政治的訓練の場である政治機構,市民に一番身近で統制が容易な行政機関,すなわち市区町村である。
科学技術があまりに高度化した結果,その直接の統制は困難となった。そこで,手続的手法でもって行政統制を図り,間接的ながら科学技術の統制をめざすことが,迂遠ではあるが,人類の明日にとって最良の道と考える。
(34)松下圭一『ロック「市民政府論」を読む』 168頁以下によると,ロックは「生命・自由・財産」を総称してプロパティ(property)と呼び,それは,財産といった用法とともに固有権といった使い方をしているという(1987年・岩波書店)。なお,以下のロックについての記述は同書による。

川崎市 山口道昭 1987年8月記

 
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