『地方自治の可能性〜〜生活保護を例にとって〜〜』
はじめに
第2臨調は、一応市町村優先の原則を打ち出してはいるものの、機関委任事務方式という「制度自体は、維持し、制度の趣旨に即して活用すべきものである」とし、向こう2年間で1割廃止を唱えるにとどまっている。「国と地方公共団体の併立的な協力、協同の関係を確保する観点から抜本的な再検討」を求めた第17次地方制度調査会答申と比較して大きく後退し、機関委任事務の廃止を求めた全国市長会の行政改革に関する提言(昭和57年6月9日)などは一考もされなかったといってよい。
地方自治体の側からすれば、非常に不満な内容であるが、今後も機関委任事務という事務は存続していくわけである。しかし、一歩退き、この制度を一応承認したとしても、その範囲において地方自治の精神を活かすことは可能である。まず、機関委任事務の代表例とされる生活保護行政を例にして、その可能性を論じ、そして、川崎市の行政のめざすべき方向の方法論として職員参加論を述べてみたい。
1.生活保護と実施要領
地方自治法別表第3、第4にみる限り、生活保護という事務は機関委任事務である。さらに、機関委任事務の範囲を限定的に解釈し、「当該法令全体の趣旨、規定の仕方、当該事務の性質、当該事務の最終的責任の帰属、経費負担等を検討して、『団体委任事務』か『機関委任事務』かを判定し」た結果においても「生活保護事務のように全国的基準で画一的に処理するもの」(高寄昇三「地方自治の活力」p.206)として、機関委任事務の代表例にあげられている。なるほど、生活保護法のもっとも権威ある解説書とされる「生活保護法の解釈と運用」によれば、生活保護法第19条(実施機関)第1項の「都道府県知事」については、「生活保護という国家事務を国の機関として委任を受けて行なう立場における都道府県知事をいう」(小山進次郎「改訂増補生活保護法の解釈と運用」p.303)として明確に機関委任事務に規定している。もちろん、同項における「市長」、「福祉に関する事務所(以下『福祉事務所』という)を管理する町村長」についても同様である。
そして、機関委任事務の被委任庁である都道府県知事、市長等の権限は、保護の「決定」及び「実施」であるとされる。保護の「決定」とは、「個々の要保護者に対してその具体的事情に基づき保護の要否、種類、程度及び方法並びに保護の変更、停止または廃止を判定する行政行為」(小山前掲書p.305)であるが、この「決定」をなすにあたって膨大な通達が発せられている。いわゆる保護の実施要領である。はたして機関委任事務の一言をもって、実施機関(福祉事務所)は、盲目的に実施要領を遵守しなければならない義務を負うのであろうか。
この問題を検討するにあたって、まず実施要領とはどのようなものなのかみてみよう。
広義の実施要領とは、厚生省事務次官通達「生活保護法による保護の実施要領について」、社会局長通達「生活保護法による保護の実施要領について」、保護課長通知「生活保護法による保護の実施要領の解釈と運用について」及び保護課長通知「生活保護法による保護の実施要領に関する質疑応答について」の総称である。また、前3通達が1冊の本をなしていることからこれを狭義の実施要領とし、第4の通知を問答通知と呼ぶ場合もある。最新版でみると、狭義の実施要領は昭和58年度版419ぺ一ジ、問答通知は昭和57年度版526ぺ一ジと膨大な通達集を形作っている。そして、これらの通達は、狭義の実施要領冒頭の「生活保護実施の態度」並びに問答通知冒頭の「はじめに」にみるとおり、生活保護業務を担当する職員を対象に発せられたものである。機関委任事務の被委任庁が都道府県知事もしくは市長等であるにもかかわらず、福祉事務所で働く都道府県もしくは市町村の職員は、直接国の指揮命令を受けるのである。
2.生活保護の社会福祉性
さてここで、生活保護という事務の性質をもう一歩突っ込んで検討してみる。
高寄昇三氏は、機関委任事務見直し論のなかで、「全国的統一・公平性の確保を図るため、その事務を機関委任事務化する必要はほとんどない。法律で事務処理の基準を定めて、あとは地方自治体の自主性に任せても、全国的統一性・公平性の確保が崩れることはない」と述べ、さらに、「……生活保護とか国民年金とかいった社会保障行政はともかくとして、機関委任事務の多くは団体委任・固有事務とみなされるべきである」(高寄昇三「臨調批判と自治体改革」p.59)と続けている。論旨には筆者も同感であるが、あえて枝葉の部分にこだわると、氏の論では、生活保護は社会保障行政とみなされ、それゆえ機関委任事務とすることもやむなし、としているが、生活保護を社会保障行政とのみみることに問題はないだろうか。
すなわち、生活保護法第1条(この法律の目的)によると、生活保護の目的として、「その最低限度の生活を保障するとともに、その自立を助長すること」が掲げられている。第1の目的である「最低生活の保障」はまさしく社会保障であり、国民年金と同様もっぱら国の責任分野であることに異論はない。だが、第2の目的である「自立の助長」は、社会福祉の概念に属するものであり、きめの細かい対人サービス(ケース・ワーク等)が要求されることから、地域に密着した事務ということができる。したがって、地域特性を無視した全国画一的な運用は、地域福祉の向上にはつながらないものと考えられる。この点については、後に詳述する。
ところで、生活保護と同様に機関委任事務の代表例とされた国民年金と比較してみよう。
両者とも機関委任事務といっても、その運用状況には決定的な差異がみられる。すなわち、国民年金法の場合、具体的な給付水準やその適用要件まで法定され、国民の権利義務関係が明白であるのに対し、生活保護法では、権利義務が抽象的なかたちでしか規定されていない、ということである。給付水準が具体化されるのは、厚生省告示「保護の基準」によってであり、その適用要件は、本来行政庁内部でしか効力をもたない通達(実施要領)に委ねられている。生活保護が単なる社会保障機能に止まらず、要保護者個々の需要に対応しようとする結果、法律では原則を示すにとどまり、個々のケースの取り扱いは通達に委ねたものといえるなら、なおさら地域の総合福祉政策の一環とならざるを得ないであろう。
さて、実施要領はあくまで通達にすぎず、「通達は原則として、法規の性質をもつものではなく、上級行政機関が関係下級行政機関及び職員に対してその職務権限の行使を指揮し、職務に関して命令するために発するものであり、このような通達は右機関及び職員に対する行政組織内部における命令にすぎないから、これらのものがその通達に拘束されることはあっても、一般の国民は直接これに拘束されるものではない」(最判昭和43年12月24日)。そして、「地方公共団体の長本来の地位の自主独立性の尊重と、国の委任事務を処理する地位に対する国の指揮監督権の実効性の確保との間に調和を計る必要があり、地方自治法146条は、右の調和を計るためいわゆる職務執行命令等訴訟の制度を採用した」(最判昭和35年6月17日)のである。
そもそも社会福祉的色彩の強い生活保護の運用を全国画一的に処理しようとすることに無理があるのではなかろうか。そしてこのことから、地域の総合福祉政策が害されるとしても、自治体は手をこまねいているだけなのか。上記判例の原点に立ち返るべきものである。
3.生活保護の問題例
地域福祉といった観点から生活保護を見直してみたい。次にあげる2例は、あくまで生活保護法という法律の範囲内での見直しにとどまるものであるので、伝統的な機関委任事務論の呪縛から自治体が解放されれば、比較的容易に実務にも適用できるであろう。ただし、ここであげるのは、矛盾点の指摘のみであり、解決策は今後の検討課題としたい。
(1)世帯単位の原則
生活保護法(以下「法」という)第10条は、世帯単位の原則を定めているが、この「世帯」の具体的な認定方針は、通達(実施要領)に委ねているものである。実施要領では、同一居住・同一生計にあるものは、原則として、同一世帯員と認定するよう求めているが、「たとえば要保護の弟と稼働所得のある姉が、世帯を同じくするときも姉がいわゆる生活扶助義務者であることに変りはなく、……世帯を同じくするや否や、夫婦相互のように全面的扶養を要求される生活保持義務者なみに扱って姉の所得を全面的に姉弟2人世帯の最低生活費に充当しうるとする行政解釈は妥当ではない」(小川政亮「社会保障権と福祉行政」p.27)との批判がある。この例で、姉と弟が別居していたとすると、単なる扶養義務関係として、姉は「社会通念上それらの者にふさわしいと認められる程度の生活を損なわない限度」(実施要領の文言)において扶養を求められるにすぎず、かつ強制力を伴わない。裏を返せば、保護を受けたくば別居すべしといった論理にもなりかねず、現行の生活保護の運用は、家族の解体を促進するとみなされてもやむを得ない面をもっている。
国や自治体の唱える地域福祉論に逆行するものといえよう。
(2)能力の活用
法第4条(保護の補足性)第1項にみるように、生活保護の受給要件のひとつが能力の活用である。そして実施要領では、他法他施策の活用を怠り、就労を忌避している場合等には法第27条による指導指示を行なうよう求めている。このことを事例に当てはめると、あらゆる母子世帯の母は、乳幼児を保育所等に頂けて働かねばならないが、次のような理由で疑問であると考える。
まず、パート労働市場における低賃金性といった社会背景のもとでも、特別な資格・技能をもたない母はパート就労せざるを得ないが、そこでは生活保護基準を超える収入を得ることはまず不可能である。そこで、子供を保育所に頂けて働き、なお生活保護を受給するという事態になるが、これを自治体の側からみると、当該世帯に対して生活保護費と保育所入所措置費の二重給付を行なっていることになる。当該母が望んで就労しているのならともかく、福祉事務所長による指示の場合など、他の要保護児童が保育所に入所できない事態を招来し、社会的公平を損なうこと著しい。保育所建設が遅れている自治体にあっては、特に考慮を要する問題といえよう。
4.川崎市のめざすべき方向
第2臨調は、生活保護について次の3点を指摘している。第1は、不正受給を排除し制度の適正な運用を確保するため、資産、収入の的確な把握等の不正受給対策を徹底すること。第2は、医療扶助の適正化を図るとともに、自立助長対策を推進すること。第3は、真に生活に困窮する者に対して必要な保護を確保することを基本として、生活扶助基準の設定方式、加算制度等生活保護制度の在り方を見直すこと、である。上記3原則から派生する個別の通達についてはともかく、機関委任事務という事務の性質上、これらの原則を無視することは自治体の職権を超えるものと思われる。特に第3点は、生活保護の運用の大改正といえるものであるが、機関委任事務という概念を承認した以上、当面国の動きを見守るしかない。
このような臨調の指摘を前にしては、筆者が第3章で述べたような問題例は、ごく些末なものといえるかもしれない。しかし、機関委任事務の本質論といったいわば理論的地方自治論とともに、筆者のあげた2例のような事例を堀り起こす作業も実践的地方自治論として不可欠なものと考えている。
生活保護は、救貧事務という伝統的な事務であり、現行の生活保護法が施行されてからも30年以上経過し、成熟した事務である。伝統的機関委任事務論さえ承認すれば、法体系もすっきりしている。辻山幸宣氏による「機関委任事務」の分類試案(ジュリスト増刊29号「行政の転換期」所収「辻山幸宣『機関委任事務』概念の再検討」)では、機関委任事務を、(1)直接規定・権限配分型、(2)直接規定・実施命令型、(3)政令委任型に分類しており、この分類法に従えば、生活保護事務は、直接規定・実施命令型の機関委任事務となる。辻山氏が前掲論文で主として問題にしているのは、直接規定・権限配分型の機関委任事務であり、例として、公衆浴場法、旅館業法、興業場法があげられている。すなわち、後者のほうが機関委任事務として承認するには、より多くの問題点を抱えているものであり、それに較べて、直接規定・実施命令型に属する生活保護事務の法体系的な問題点は、少ないといえる。
また、「実務上は、機関委任事務に限らず、自治体の本来の事務領域についてさえも、通達、示達、意見などのかたちで中央省庁から行政解釈が流され、法律解釈の統一がはかられてきた」(ジュリスト増刊19号「地方自治の可能性」所収原田尚彦「地方自治体の法令解釈権」)といわれている。
自治体が憲法上認められた地方政府であるなら、憲法の枠内で総合行政権を有するのは当然のことである。そして、法令によらず、通達による国のタテ割行政を打破するには、法令の自主解釈権が必要であり、むしろ、直接規定・実施命令型の機関委任事務である生活保護よりも、自治事務、団体委任事務、並びに機関委任事務のうちでも直接規定・権限配分型に属する事務のほうが、国からの不当な千渉を退けうる余地が広いのである。
ところで、自治体職員一人一人が、総合行政の主体の一員として、自己の職務を再検討するならば、住民自治の視点からみて不合理な事務の執行に気付くはずである。この不合理が法令・条例等の不備によるものか、それとも下位規範である通達等の不当性によるものか、といった厳しい問い返しの積み重ねが明日の地方自治の礎になるものと信じている。しかし、これらの積み重ねは職員一人一人でも可能であるが、これだけでは職務に結ぴつかない。職務に結びつける=行動するためには、組織的な対応が必要であり、そのような組織化がなされねばならない。
5.職員参加の必要性
ここで、「2001かわさきプラン」について取り上げよう。
「2001かわさきプラン」は、文字どおり21世紀に向けての川崎市の方向性を定める長期計画である。内容は、「総論」、「各論」、「都市整備構想」、「計画の推進にあたって」及び「資料編」に別れている。この中でもっとも多くのスペースを得ているのは「各論」であるが、この各論と他の総論部分との関連が希薄である。すなわち、総論があってそこから各論が導きだされるのが最善であるが、それがかなわないとしても、総論を一考もしない各論というのはいかに無茶である。この結果、「各論」相互間の優先順位の判定が困難であり、「2001プラン」の盛りだくさんの事業計画をみた場合、実現可能性につき疑問も湧きかねない。そしてもし、優先順位のつけかたが、国の補助金や起債の許可のみに左右されるとしたら、総合行政主体(さらにいえば地方政治の主体)である川崎市にとって総合計画の意味が半減以下となる。地方行財政制度の不合理性について全く触れずに断定するのは早計であると承知はしているが、あえてこのように言い切りたい。
さて、「2001プラン」の各論部分が総論部分の意向を反映しておらず、一人立ちしてしまっていることは先に述べた。各論のなかの章立てをみても各局各課の組織図のとおりである。補助金、起債等を通じた国の自治体統制があり、そのような不合理な制度の改革を求めることは当然必要であるが、自治体はだからといって自治体自体で改革可能な事柄についてまで免責されるわけではない。いかに補助金等による国のタテ割りのコントロールが厳しくとも、自治体までタテ割りになってしまっては、それこそ自治の死滅である。そこで、このような事態を回避するための手立てとして職員参加が必要になってくる。情報公開条例等によって市民参加の条件作りを行なうとともに、まずもって行なう必要があるのが職員参加ではないだろうか。なぜなら、住民自治とは総合行政を指向する観念であり、職員参加もまた総合行政に向かうからである。ここで、「職員参加」と「職務参加」の違いを取り上げよう。
松下圭一氏は、「職員参加は自治体全体への展望をもつ参加であり、職務参加は職場中心の参加である」と性格わけしたうえで、「職務参加をすればするほど、自治体機構内の各セクションの個別職務の絶対視がおこり、職場要求が肥大する……しかも、この職務要求は保育園→厚生省、幼稚園→文部省あるいはコミュニティ・センター→自治省、公民館→文部省という国の省庁のタテ割行政を反映した対立へとすすむことになる」(松下圭一編著「職員参加」所収松下圭一「職員参加の意義と理論構成」p.323〜324)と述べている。「職員参加は……国の官治・集権型のタテ割行政にたいする、自治体本来の課題である自治・参加・分権をめざした抵抗のシクミの具体的手がかりになっていく」(松下前掲書p.328)ものであり、その基礎条件として「個々の職員が、その勤務するその自治体の地域構造、市民生活だけでなく、行政全体の問題点を熟知しうるシクミ」(松下前掲書p.330)が整備されねばならないものである。このような基礎条件が整備されてこそ、川崎市の総合計面である「2001かわさきプラン」も有機的に実行され得るのではないか。
おわりに
機関委任事務としての生活保護行政を例にとって、地域の総合福祉体系をいかに確立するか、そして、企画部門による自治体計画を実現するためには、実施部門を担当する職員の意識改革が不可欠なことを論じ、そのためには、職員参加のシステムが確立されるべきであることを指摘した。自治体職員が職務の専門家ではなく、自治体の専門家になって、初めて市民と同じテーブルにつけるものであり、「身分としての公務員」から「職業としての公務員」に脱却できるのではないか。「職業としての公務員」とは当然すぎるほど当然のことのようであるが、地方公務員法33条(信用失墜行為の禁止)、同法35条(職務に専念する義務)等の解釈や特別権力関係論に代表されるように、戦前の身分的公務員像の残滓がすべて払拭されているわけではない(足立忠夫「職業としての公務員」に詳しい)。このことが学問の世界に限られず、我々職員の意識の深層にもいまだ根を張っている可能性も高いと恩われる。しかし、これでは主権者としての自覚に目覚めた市民の理解を得られず、これからの自治体行政は停滞してしまう。自治体職員が自治体の専門家にならねば、国や市民との関係において、自治体の存在意義が問われてしまうものである。臨調行革路線に対峙するためには、川崎市独自の地方自治の哲学をもたねばならない。自治体が地方攻府である所以である。実践的地方自治論を展開するために職員個々が研鑽することはもちろんであるが、それを積極的に推進する必要がある。21世紀をめざした川崎市の進むべき方向は、そこが原点である。
 

川崎市 山口 道昭 1983年10月記

 
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